第二章『木村拓の場合』

 この孤独から助けてほしかった。伝えたかった。僕の孤独を。
 ――僕はただ知ってほしかった。

 *

 軽快なメロディが、朝の静寂を切り裂く。僕は思わず布団を跳ね除けて、携帯を手にとった。
『アラーム起動中』
 そんな虚しい文字だけがサブディスプレイには浮かんでいた。無機質で電子的な、文字。
 自然と笑みがこぼれる。渇いた、笑みが。
 涙もこぼれた。僕の孤独の証がぽたぽた、ぽたぽたと。一人ぼっちの僕の、涙。
 そうだよ、僕みたいなやつにメールや電話をしてくれる物好きな人がいるわけない。分かってたさ、寝ぼけてただけだよ。
 泣いている自分が馬鹿らしい。何を今さら泣いてるんだ、僕は。
 メールの受信履歴を開いてみる。三週間前に母さんから一件。これは母さんが機種変更した日で、電話番号が変わったという、ただそれだけの連絡。用件以外の何でもない。
 その日以降は誰からもメールはなく、母さんからのメールすらない。当然のように電話も、ない。
 ――理由はわかってる。よくわかってるんだ。誰も僕を必要としていないからだ。僕は人と話すのが苦手で、話すといつもどもってしまうし、その上、かっこよくない。皆には気持ち悪いとさえ言われる。
 僕だって、人と上手に話したい。僕だって、皆と楽しく話したい。僕だって、誰かと遊びたい。皆と遊びたい。皆の和に加わりたい――ほんとは、好きでこんな顔に生まれたわけじゃないのに。
 だから、だから、努力だってした。
 人と話そうと頑張った。顔もましに見えるように頑張った。それこそ髪型から服装、何から何まで、とにかく色々したんだ。
 人とうまく話せないなら、メールでどうにかしようと思った。だから、誰かと知り合う度にメールアドレスを教えた。もちろん、誰からもメールなんて来なかったけど。
 仕方ないから、出会い系のサイトにだって行ってみた。恋人が欲しかったんじゃない。友達が欲しかったんだ。
 そりゃ最初はメールが続いたり、嬉しかったさ。こんな僕とでもメールをしてくれる。ただただ、それが嬉しかったんだ。だけど、写メを交換した途端に返事をしてくれなくなる。そろいもそろって皆。皆だ。
 僕の顔はそんなにひどいのかな。僕の顔――
「お前、人間は顔じゃないぞ」
 メールでそう言ってくれた娘もいた。女のふりをしたネカマだったけど。
「お前、人間の顔じゃないぞ」
 そう言ったクラスメイトもいた。大きなお世話だ。
 ――そろそろ限界かもしれない。
 孤独に耐えられない。今までについた心の傷が痛い。ずきずき、ずきずきと痛む。あいつの、あの子の、あの人の、あの方の、あの野郎の、言葉、言葉、言葉の数々がナイフとなって僕の心にまだ突き刺さってる。
 辛い。悲しい。寂しい。 
 この顔じゃ誰も相手にしてくれないし、この性格じゃ誰とも仲良くなれない。この顔は治せないし、性格を治そうとしても、結局は誰も相手にしてくれないんだ。もう傷つくのに疲れたよ。
 ――決めた。
 今日一日、誰からも連絡が来なかったら死んでやる。もう決めた。いま決めた。
 それくらい、わけはないさ。どうせ、誰も悲しまない。僕は孤独なんだから。そうさ、僕はどうでもいい人間だから、いなくてもいい人間だから、死んだってかまやしない。誰も悲しまないんだから。誰も泣かないんだから。
 僕が必要とされているかされていないか、今、ここで、試してやる。

 それから数時間、僕は待った。待ち続けた。朝からずっと待った。待ち続けた。ずっと。
 時計の針の音だけが規則正しく聞こえる。裏腹に僕の呼吸は乱れたままだ。何かを期待しているようで、けれども、初めから諦めてるようで、色んな気持ちがごっちゃになっていて自分で自分がよくわからない。
 それでも僕は待った。鳴らない電話を手にして。心のどこかでは期待しているから待った。鳴らない電話を手にして。
 ――けれど、いくら待っても誰からのメールも電話もない。
 やっぱりな……どうせそうだろうと思ってたんだよ。僕は、ふっと笑みを漏らすと、立ち上がった。
 携帯を右手に、洗面所に向かった。この家には誰もいない。高校を卒業して、父さんが亡くなって以来、様々な事情で家には僕一人だった。一戸建ての家は一人には広すぎるよ。
 高校卒業後は大学に入学したけどだんだんと行かなくなって、バイトだけをして暮らしていた。最近はバイトですらやる気がせず、こんな大きな家にこもりっきり。母さんの仕送りだけで生きている、だめな僕。母さんは女というだけで仕事も大変だというのに、僕は――。
 そのことを考えると、涙がこぼれた。ごめんなさい、母さん。
 気持ち悪い僕で、ごめんなさい。暗くて、ごめんなさい。本当にごめんなさい。
 立っているのも辛くなった。廊下に崩れ落ちると、僕はずっと泣き続けた。ずっと。

 しばらくして落ち着いたので、洗面所に入った。カミソリを探すと、引き出しから新品が出てきた。何週間も前に買ったやつだ。外出しないから、ヒゲも剃らない。新品のまま残っていたカミソリ。きっと、切れ味もいいんだろうな。
 袋から出して、試しに手の甲に当ててみたら、赤い線が入った。
 血。真っ赤な、血。鮮やかで、どこか綺麗な。
 皆も僕と同じ、この鮮やかな色の血が流れているのに。僕と何も変わらないのに。僕と皆と何が違うの? 僕は、僕は……何で一人ぼっちなの?
 考えると、また涙が出てきた。さっき、廊下であれだけ泣いたというのに。
 血の流れる左手を見て、まだ携帯を持っていたことに気づいた。僕はいったい何を期待してるんだろう。誰からも連絡の来ないことは自分でもわかってるはずなのに。
「はは……」
 一人で笑うのは何度目だろう。それに気づくと、またみじめで、押しつぶされそうな気持ちになった。
 携帯画面を開き、画面を見るが、先ほどと何も変わらない。アンテナも三本立っているし、電波も十分だ。だけど、メールはない。やっぱり、僕は一人なんだと思った。
 携帯のメモ帳画面を開いた。
『母さん、迷惑かけてごめんなさい。気持ち悪くてごめんなさい。もう、母さんの足かせはいなくなります。せいせいしたよね? それから、父さん。今からそっちにいきます。気持ち悪くても、天国なら皆に相手してもらえるよね? 最後に……生まれてきてごめんなさい』
 遺書のつもりだった。短いけどいいんだ。僕には伝えたい言葉も、伝えたい人もいない。
 準備は整った。携帯を置くと、かみそりを手首にあてがう――
 身体中が震える。カミソリを持つ右手が大きく震え、その振動で左手首に小さな傷をつける。
 死ぬのは怖かった。このまますぱっと手首を切ると、どれくらいの痛みがするのだろう?
 わからない。わからないけど、すごく痛いのだろう。でも、でも……誰かの心ない言葉の方がもっと痛い。
 僕には生き方がわからない。でも逝き方ならわかる。今より少し、少しだけカミソリを持つ手に力を込めればいいんだ。
 天国では、皆と仲良くなれればいいな――右手に強く力を込めようとした瞬間、携帯は美しいメロディを奏で出した。
「で、電話……?」
 驚きのあまり、かみそりを落してしまった。慌てて携帯を見てみる。
『着信中』
 サブディスプレイに、夢にまで見た文字が踊っていた。混乱しながらも僕は応答ボタンを押してみた。
 知らない番号だったけど、どうでもよかった。誰かは知らないが、この誰かは僕に用がある。……それだけでよかった。
「俺、高校時代の同級生の南だけど」
 電話から聞き覚えのある声が聞こえる。
「南? 高校三年のとき、同じクラスだった南?」
「ああ、そうだよ。招待状もすでに送られてると思うんだけど、同窓会の出欠確認なんだ。お前、来るか?」
 そうだった。南は、学級代表だったんだ。
 学級代表の仕事には同窓会の幹事も含まれる。学級代表なら、全員に電話してきて当たり前だよな。けど……僕を誘ってくれたことが、単純に嬉しかった。
「行ってもいいの?」
「当たり前だろ?」
 何を当たり前のことを言うんだという口調だったけど、僕はすごく嬉しかったんだ。
「……必ず、必ず予定あけるよ!」
「おう、わかった」
「よろしくね。……あの、南」
「何だ?」
 高校の頃、僕はクラスでいじめられてた。僕は聞きたいことがあった。
「クラスでいじめられてた僕なんかが行って、ほんとにいいの?」
「あー……あのときは、俺も無視して悪かった。こう見えて小心者だから、見て見ぬふりしてたんだ」
 南は、いじめには荷担しなかったけど、助けてくれたわけでもなかった。
「皆も反省してると思うよ? ただ、俺から言わせてもらうと、皆も悪かったけど、お前も悪かったと思う」
「僕が悪かった……? やっぱり、僕の顔が気持ち悪いのが悪かったの?」
「そうやって何でも容姿のせいにする、うじうじした性格。それから、相手にしてもらおうという甘えた性格」
「何でも容姿のせいにする……」
「お前は自分から変えようとしなかったよな? 自分からもっと、積極的に会話すればよかったんだ」
 あの頃の僕は確かにそうだった。顔が気持ち悪いからってそればかりを逃げ道にして。
 けど、今の僕は違う。頑張って、性格も変えようとしてきた。だけど、誰も相手にしてくれなかった。
「けど……けど! 今、僕は性格変えようと頑張ってるよ!? 皆と仲良くなろうと頑張ってるよ!?」
 南は何も知らない。僕の近況などは何も。
 でも、全てをぶちまけたかった。
「それでも、皆、僕を相手にしてくれない!! 僕は辛い……辛くて辛くて死にたいと思ったんだ!!」
 僕は一気に全てを打ち明けた。
 しばらくの無言。先に口を開いたのは、南だった。
「……あのな」
「うん?」
「人間、努力すれば、いつかは認めてもらえるもんだ。お前はまだ、努力してる途中だろ?」
「……努力の途中?」
「まだ頑張りが足りないんだ。もうちょっと、その努力続けてみろよ? だんだんと皆、お前の側に集まってくるさ」
 意外だった。こんなことを言ってくれる人がいるなんて。
「それでもキモイキモイ言って来る奴がいたら、そいつはただの寂しい奴。そんな奴は相手しなくていいんだよ」
「……そうかな?」
「そうなんだよ。俺、高校時代のお前は嫌いだけど、今のお前は嫌いじゃないぜ?」
「え?」
「お前、頑張ってるだろ? しゃべるとき、どもらなくなったし」
 気付かなかった。どもらずに、しゃべれてる。
「今のお前なら、皆もきちんと受け入れてくれると思うぞ」
 嬉しかった。ただただ、嬉しかった。
 気付けば僕は泣いていた。ポロポロ、ポロポロと――。
「南、ありがとう。ありがとう」
 僕は何回もお礼を繰り返していた。南の照れくさそうな声が聞こえたが、僕は、ありがとうと言うことしかできなかった。

 泣いている間、まだ他のクラスメイトにも出欠確認を取らなければいけないというのに、南は電話を切らないでいてくれた。
 彼女ができたとか、彼女に認めてもらうためにすごい努力したとか。色々と冗談を交えて話してくれて。泣いている僕を、気遣ってくれたんだ。
 南は、僕の頑張りを理解してくれた。生まれて初めて、人に認めてもらえたことが嬉しかった。
 南と電話を終えた後も、僕は泣き続けた。しかし、この涙は悲しみの涙じゃない。どこか暖かい――そんな涙だった。
 僕は変われた。今まで、自分はうまく話せない、頑張っても無駄だと思い込んでいた。そう思い込んで、家に引きこもるようになり、一歩も外に出なくなった。しかし、違った。少しずつでも、僕は変わってきている。
 ゆっくりでいいから、頑張ってみよう。そう、ゆっくりでいいから。皆に認めてもらえるように。自分に胸を張れるように。

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