19.僧侶ルーの役目

 焦ってはならない。折れてきた分岐を思い出しながら、あたしは自分に言い聞かせた。
 道順を書き込むべき地図は、持ってこなかった。着の身着のままで飛び出してしまったから、この腰にはたいまつもなければ薬草の用意もない。
 気休めに、分岐点の壁に印を穿つことにした。出口の方向を矢印で示す簡単なものだ。あたしたちと違って準備を整えてから洞窟に臨んだカイルは、たぶん地図を持っている。でも、魔物に襲撃されているいま、それが無事とは限らない。
 魔物の声が近づいてきた。もちろん、あたしたちだけで勝てる見込みはほとんどない。カイルを見つけ出したら、三人で出口まで駆け抜けるしか、助かる可能性はない。
 心配するな。あたしとクライスならきっとやれる。頼れる相棒の横顔を盗み見ると、やはり緊張しているのだろう、表情がひどくこわばっていた。
「なんだか、嫌な予感がするな」
 クライスのその言葉がきっかけになった。足を止めて、魔力で灯していた光を消した。耳を澄ます。肌で探す。神経を研ぎ澄ませる。
「どうした、ルー?」
「黙って」
 気配があった。あたしと、クライスと、それ以外の。
「クライス、後ろ!」
「敵か!」
 あたしが叫ぶのと、抜刀したクライスが横っ飛びに壁際まで退いたのは、ほとんど同じだった。焦らずに、でも急いでクライスのもとに駆け寄ってから、ふたたび灯りをともすと、冷たい岩壁を背負う魔物の姿が見えた。爛れ落ちて醜悪としか言いようのなくなった肌は、かつての色を忘れ不気味な紫に染まっていた。だらしなく開いた唇から垂れた涎には、傷口から全身を侵す毒が含まれている。
 しにがみ兵。
「汚い顔だ。いかにも、死に切れず残った負け犬らしいな」
「ずっと、後ろから機会を狙ってたってわけね」
 しにがみ兵は不気味にこちらを見つめ、静かに槍で壁を掻いた。
「こいつ……!」
「どうした?」
「あたしたちの矢印、全部消されたわ」
「なに?」
「カイルが地図を持ってること、祈るしかないわね」
「どうかな、あまり期待できないが」
 一匹だからと油断するわけにはいかない。しにがみ兵はそれほど弱い魔物ではないのだ。集団で襲われれば村の大人でもてこずることもあると聞いた。
 指先に魔力をこめて、クライスの袖を引いた。
「こいつ、あたしたちふたりで倒すには、ちょっと荷が重いわね」
「言うな。気持ちで負ければ剣は出ない。ルー、キアリーの契約は終えてるな?」
「もちろん」
「三度までは斬らせてやるつもりで行く。回復と解毒は任せるぞ」
 言うが早いか、クライスは真正面から突進した。最初の一歩を獣のような俊敏さで踏みこむ。
「らぁっ!」
 上体をかがめて突進したクライスに対し、しにがみ兵は後ろへ大きく跳躍しながら槍を繰り出した。眼球を鋭く狙った槍を間一髪でかわしたクライスは、代償として頬を深く切られ、たたらを踏んだ。死を運ぶ命なき槍兵は、その隙を逃がさなかった。
「っ、ぁあ!」
 左のわき腹に、槍が刺さっていた。服の上からだし、急所を外しているから、即死にはいたらないだろうが、紺碧の床面にははっきりと鮮血が落ちた。毒とともに血を侵すのは、皮膚を焼くような激痛だと聞いたことがある。経験を積んだ戦士でも顔をしかめる裂傷に、しかしクライスはよく耐えた。
「っつ!」
 後ろからでは見えないその顔は、きっと鬼の形相を浮かべていたのだろう。感情を持たないはずのしにがみ兵の表情がわずかに恐怖を浮かべたとき、断末魔の悲鳴も許さないクライスの長剣がすでにその体を袈裟切りに両断していた。
 顔をしかめて戻ってきたクライスに駆け寄り、傷口に触れた。猛毒を孕んだ傷に特有のひどい熱が、血を赤い蒸気に変えていた。
「頼むぞ」
「任せなさい」
 右手で腹部を、左手で頬を押さえて同時にキアリーを唱える。同一呪文とはいえ、両手で別の箇所に魔法行使する分離の法は、ミストーラでもあたしにしか習得できなかった荒業だ。
「あんた、これ、よく耐えたわね。意外と深い傷よ」
「なに、これくらいなんともない」
 すくめられたクライスの肩越しに、あたしは信じられないものを見た。
「ねえ、クライス」
「なんだ?」
「あいつ、こっち見てる」
「なに?」
 しにがみ兵が、今にも閉じてしまいそうな目でこちらを見つめていた。
「情けだ。とどめを刺してくる」
「待って!」
 なぜ気づかなかったのだろう。成仏できぬままにこの世に留まり続けた人間の果て、ゾンビの蔑称でおそれられる朽ちた魂が、しにがみ兵の正体だ。
 無機物や獣からでは絶対に生まれないこの魔物の生前の姿は、ならば決まっている。こんな辺鄙な村の洞窟で、他の誰が命を落すというのだろう。
「あなた、あの十三人のうちの、ひとりなのね」
 かつてこの洞窟の試練に訪れ、あえなく散った若い命。あたしたちと同い年だったときに命を奪われて以来、彼はずっとこの暗く湿った洞窟をさまよいつづけていたのだ。いつか出口を見つけることができると信じて。いつか成人の証を携えて、あの明るかった村へ帰ることのできる日が来ると信じて。
「おい、ルー」
「平気。この人、もう立つ元気もないもの」
 しにがみ兵は、悲しげな目でこちらを見た。言葉も忘れ、意思を奪われ、腐り落ちた体で、それでもあなたは希望を捨てなかった。魔物に堕ちてしまっても、命をなくしてしまっても、それだけは誇って良いことだった。
 死の予感ゆえか、あるいはあまりの激痛のためか、長らく邪悪な思念に奪われていた思考を取り戻したらしい青年は、なにか神々しいものにでも出会ったように、すがめた瞳であたしを見た。
「あ――う」
「そうね。あなた、寂しかったのよね」
 あたしたちを襲ったのも、道連れが欲しかったのかもしれない。もう出口を見つけても外には出られないと悟ってしまった彼は、せめてそうすることで生きることに意味を見出すしかなかった。
「本当は、帰りたかったのね」
 彼は涙を振り絞ることで答えた。でも、あたしは真実を告げなければいけない。慰めることはできなかった。救ってやることもできなかった。あたしには、謝ることしかできなかった。ごめんなさい。こんな非力なあたしで、ごめんなさい。
「あなたは、もう帰れない」
 いまここで死ぬからではない。魔物となったものを受け入れることができるほど、サンヴィレッジの懐は深くないのだ。だから、許して、とあたしは思った。あなたを救えなかった過去の村と、あなたを殺してしまった今の村を、どうか許してください。
「たす……けて。もう、いや……だ」
 胸を突き上げる衝動と、鼻を貫く憐憫に、あたしは耐えた。泣いてはなからなかった。本当に泣くべきはあたしではなく、彼のほうなのだから。
「わかった。助けてあげる」
 震えるこぶしを握った。歯を食いしばって、嗚咽を飲んだ。迷える魂を導くのが僧侶の仕事だというのなら、あたしこそが彼に真実を告げなければならなかった。
 光はない。太陽も見えない。だけど、神はきっと救ってくれる。そう信じて、あたしは詠った。

「主よ、永遠の安息を彼に与え、絶えざる光でお照らしください。
 主よ、あわれみたまえ。神よ、あわれみたまえ。主よ、あわれみたまえ。
 私は灰のように砕かれた心で、ひざまずき、ひれ伏して懇願します。
 主よ、彼らの魂を死から生へとお移しください。神よ、この者をお許しください。慈悲深き主よ、この者に安息をお与えください。
 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。
 この世の罪を取り除く神の小羊よ。彼に永久の安息をお与えください。
 天使があなたを楽園へと導きますように。天使たちの合唱があなたを出迎え、永遠の安息を得られますように――」

 詠唱を終えたとき、かつては同胞だったはずの男の体は、灰となって闇に溶けていた。
 ただひと言、ありがとうと感謝の言葉を遺して。
 涙は出なかった。ただ、虚しかった。不遇な人生を理不尽な試練によって閉ざされた彼が、あたしのような半端な僧侶に送られて逝かなければならないことが、ひどく悔しかった。
 あたしはなにかを与えてあげられたのだろうか。
 自分の進むべき道さえ決められない、あたしのような中途半端な僧侶に、彼を本当に浄化してやれることができたのだろうか。
「ルー」
 灰を握って座り込んでしまったあたしの肩に、クライスが優しく手を置いた。
「偉かった。おまえは、よくやった。だからもう行こう。――辛いだろうが、カイルが待ってるんだ」
 頷いて、立った。決してあたしの顔を見ようとしないクライスの優しさに感謝しながら、その手を握った。
「うん、わかってる。――行こう」
 答えて前を見た。
 覚悟を決め、向かうべき友のもとへふたたびの一歩目を踏んだときだった。
 静寂に支配された洞窟を切り裂く魔物の咆哮と、カイルの絶叫が聞こえたのは――。

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