30.駆けるクライス

「これは……」
 先刻まで洞窟の、村の埋もれてしまった歴史を語っていたルーの声が一転する。
「――どうして私が」
 ルーの読み上げる声。
  ……どうして私が、こんな使命を担ってしまったのだろう。諦めではきっと、この絶望感は解消出来ない。高尚な使命とか、誰かのためだとか、そんな言葉でも、こんな惨い現実はとてもじゃないけれど認められない。現実がこんなにも惨いものだなんて。……大人になれば、ただの僧侶になって、それなりの癒し手になって、おばあちゃんになって、死ぬつもりだったのだ。そうでないにしても、せめて普通の人間として、人生を終わらせるつもりだったのだ。それなのに、どうして。
「関係のないページだけど」重い声で。「読むべきだと思う」
 それは、弔いだった。記録にしか残り得なかった、名のひとかけらでさえ残せなかった少女の。ルーも俺もカイルも、解っていた。彼女に祈らなくては、ならないのだと。せめて後代にその犠牲を知れた俺たちが祈らなければならない、と。
  ……今こうやって死にゆく中で日記を書くだなんて、リグが見たら笑うだろう。セイラが見たら、「もう、あなたっていつもそんな馬鹿みたいなことしてるんだから」って笑いながら頭をくしゃくしゃに、リンディだったら「そんなの家でもできるんだからさ、早く帰ろう」っていつも通りにせっかちそうに、ジンが見たら「ほんと、女の子ってわかんねーよな」で、「男の子にだって、変なところは一杯あるよ」って私は言って。……これは妄想だ。何の救いにもならない。
 リンディ。セイラ。ジン。タレガ。ツェータ。ライン。ロスティ。トゥリーナ。インディ。カノン。マール。アレフ。
  ……死というものが、こんなにも目の前にあるだなんて、思っていなかった。十三人みんなで、適当にやれば帰れると思っていたのだ。ああ! だれも悪くなんてない。悪いのがもしあるとしたら、それはきっと現実の冷たさで、現実のあまりに牢固過ぎる硬さで、……そして誰も悪くなんてないのだ。
 ……後代に向けて。リンディはセイラを守って死にました。セイラは魔法を唱えようとしたところを、ヴァンパイアの牙で貫かれてしまいました(ごめんなさい、セイラのお母さん。もし私にもっと魔力があったら、約束通り彼女を助けられただろうに)。ジンとタレガは助けを求めに出ていったまま戻ってきません。そして、もう二度とあの陽気な顔を見ることは出来ないでしょう。ツェータとラインは眩惑の魔法にかかったままどこかに消えていってしまった。ロスティはついさっき、私を守ろうとして倒れてしまいました。トゥリーナは邪悪なる炎に、インディはおぞましい氷に閉じこめられてしまいました。カノンは囮になりました。挑発の声は、もう聞こえません。マールは強力な毒を喰らい、私とはぐれている間に死んでしまいました。アレフは魔物の斧に身体ごと真っ二つにされてしまいました。
 ……みんな、勇敢な戦士でした。この日記が誰に読まれるかは解りません。この洞窟はきっと閉鎖されるでしょうから、もう二度と誰の目にも届かないかもしれません。だとしたら、これはただ私のためだけの文章になるのかしら。
 ……最後の一人になってしまうということは、なんてつらいのだろう。輪になって遊んでいた子供たちが、ひとりずつ抜けていって、しまいには最後に一人残されてしまう、あのかなしい倦怠。……最後に、ひとり。
 魔界の扉に、僧侶の私の持てる全てをかけた。封印の儀は無事終った。だから、もうやるべきことはない。
 でも……最後の人間は終わらせなくてはならないのだ。それが、祈り。僧侶としての私の、つとめ。それすら果たせず犬死にをしてしまうのでは、死んでしまったみんなに申し訳ないじゃないか。……震えている。怖すぎる。死んでしまうだなんて。それも、進んで死んでいくだなんて。……ああこれが、カノンの、ロスティの、リンディの恐怖だったのだ。ああこれが、マールの、アレフの、トゥリーナの痛みだったのだ。……私もそれを味わわなくてはならない。
 何のために?
 これはやっぱり、自分のためなのかもしれない。僧侶としての、私のわがまま。僧侶への、私の執着。サンヴィレッジでも大嫌いなお兄ちゃんのためでも母さんでも父さんでもカノンでもロスティでもトゥリーナでもツェータでもラインでもインディでもなくただ自分のためにしか物事なんて出来なくて私って本当にだめだ、ごめんタレガ、やっぱり私ってばかだ。あなたは逃げろって言ってくれたのに。でも私は頑固だから逃げられなかった。最後までばかだった。
 後世の人に。もし生きていたら、この日記を誰のもとにも届けず、燃やしてください。ポケットにペンを入れておいて正解だった。書くということは、一種の浄化みたいなところが、あるから。……私は救われない。だけれど誰かを、村を救うことは出来たと思う。……さようなら、みんな、さようなら、みんな……。
 日記は終わった。声は震えていた。
「とても悲痛なことだと思う」ルーは最後に呟いた。「とても、ね」
「残るってのは、確かにつらい」俺。「でも、何でだろ」
「何?」ルー。「まだこれ以上、何かあるかしら」
「何で逃げなかったんだろう」意固地になって。「逃げろって話だろ。ばかだ、おおばかだ」
「クライスはそういうところ、何ていうか、素直じゃないよね」
「どういう意味だそれ」「本当はかわいそうって思ってるんでしょ」
「思ってる。だから、何で逃げなかったのか……」
 同意の目で見るルーと違って、カイルは口許をぎゅっと強めた。
「……それが職業、ってことかもしれない」カイル。「何ていうの? 使命? あるいは、矜持かもな」
「……カイル」ルーの声が、震えていた。「カイルがそんな言葉を……知ってるだなんて……」マジで震えてるけどルーそれは結構失礼だろ。カイルはぽかんとしていた。ルーはカイルを大いに褒めた。いやルー、それは結構失礼だろ。

「さて」ルーが手を叩く。「これからどうするか」
「どうする?」カイル。「じゃあまず目的が必要だ。……もちろん、生きて帰ること。それと、もう一度封印をかけること」こっちの顔を見て、「だよな?」
「そうね。ただ正直なところ――私たちはたまたま事態を垣間見たに過ぎないわけで、あの魔物が捕われている間に早くここを脱出するべきだと思う」
「封印が解けてるのに、見逃せって?」
「そうじゃない」合の手を入れる。「大人の助けを借りるべきだってこと」
「ここでかよ!」眉を顰めて。「もうここまで来たんだし、オレたちでやるべきだろ!」
 カイルの使命感。職業の、使命。それもあっただろうが、違う感情も入り混じっているのは誰が見ても明らか。
「おれたちで? やればいい?」おうむ返しに(痛烈だ)。「どうやって?」答えられないカイルを見て、ルーはやさしく笑う。「別に意地悪で言っているんじゃないの。そうじゃなくて、私たちの能力の限界を、しっかり知らなきゃ、ということ」
 カイルの気持ちは解っていた。大人になんか、頼りたくないのだ。自分を無理に型にはめようとする大人になんて、頼りたくない。待ち続けるあの人の顔が、ふっと浮かんで、消える。「能力の限界」カイルは繰り返す。「つらいな」
「これって、とても大切なことだと思うわ。……あの日記じゃないけれど、こういうときに楽観的な態度で望んだところで、その当てが外れたら駄目。あなたは私の能力を当てにしたのかもしれないけれど――」ちょっと、苦々しそうな声で。「率直に言って、私なんかで封印をやり直せるかどうかは、解らない。自信がない。あの日記の子がどういう子なのかわからないもの。私なんかよりももっともっと天才だったのかもしれない。……もし出来たとしても、大変な時間がかかると思う。魔物もまだいるのに、そんな長時間もあんなところで作業をやるなんて」小首を傾げて。「出来る相談だと思う?」
「……思わない」日記の少女は命を落とした。ルーに同じことをやれと言わないほどにはカイルは聞き分けが良かった。ただ、頭で納得しても感情がついていっていないのだ。こういうとき、カイルは最後まで強情を張るやつだったな、と俺は思う。「納得しました」と渋々、カイル。
「よろしい」ちょっとふざけたように。いやもしかすると、あえて声を明るくして。アルビノの白髪が、静かに揺れる。「それじゃあ、出ましょう。……元はといえば、私のせいなのよね。ごめんなさい、時間をとらせたわ」
「そんなの、仕方ない」手を置いて。「能力の限界ってやつだろ」
「あら、クライスまでそんなつまらないことを言うのね」「言ったのはおまえだろう」つまらないことでしょう。ルーはしずかに囁いた。ああ、と思った。こいつだってあの言葉には、何か苦いものがあったのだ、とようやく悟った――たぶん、けた外れの魔力を持っているだけに、一層苦い何かが。
 日記を、そっと彼女の傍らに。貴いもののように、敬意を払うように。
 そして、言った。
「彼女の、言うとおりにしてあげて」
 カイルは頷き、もっとも得意な呪文を唱えた。メラ。
 焔に包まれ、日記は燃えた。その火が消えるまでルーは祈った。俺もカイルも、祈りの言葉なんて覚えてはいないけれど――それでも、祈った。カイルも思っていたかもしれないけれど、彼女が逃げなかったのには、きっと悲しいほどつまらない理由があったのだろう(それは、卑小な言葉で言うなら、一つの当てこすりだったと俺は思う)。俺は彼女はばかだと思ったし――そして、その分だけ一層、心のなかに透明な何かが沸き上がるのを感じた。誰かを救えるかもしれないなんて、ただの口実なのかもしれなかった。……人間を救うってのは、難しい話だ、と思った。救われない人間はいくらでもこの世の中にいる。救われない数だけ怨恨があり、あるいは死がある。
 そのどろどろしたいやなもの全部を、こいつは引き受けるのか――力を使い切って、身体を動かせなくなったまま朽ち果てたこの遺骸に、ルーが何を思ったのかは知らない。ただその背中は、なんだか無性に小さくて、あれだけ色々勝ち気に言っていたのに、やっぱり震えているような気がした。

 それから俺たちは、魔物を刺激しないように、そっと歩みを進めていった。これで終わりだった。……甘酸っぱい感傷というより、甘えたことを言えばもう少し続いてほしかった。カイルの地図を参照しながら、歩いていく。
 道中、地図にあるバツのマークに差し掛かる。サンヴィレッジの先祖によって作られ、半世紀前の大人たちによって修復された職業の神の像はその半身以上が粉砕されていた。
「あのバケモノがやりやがったな」カイルは緊張した面持ちで毒づく。
 破壊された職業の神の、顔半分が怨めしげにこちらを睨んでいた。
「職業の神、か。壊れちまえば、ただのおっさんだな」
 カイルはつぶやき、出口に急ごう、と言った。
 出口がなければいいな、と思ってしまった。カイルなんかより、俺のほうが聞き分け悪い。
 でも。ここを出たら。
 それで小さな活劇は終わってしまう。
 俺はまた待つのだろうか。待ち続けるのだろうか。父はそうするだろう。兄はそうしないだろうし、……そして、カイルとルーはどうするのだろう。いつかどこかにいってしまうのだろうか。
 甘えるな。心の声を、打ち消して。甘えるな、クライス。
 光が見えてきた。出口。生命のにおいが、こんなにも光から香ってくるだなんて、初めて知った。
「……なんか、不思議だよな」カイルが呟いた。「あんな目にあって生きてる」
「ああそうだ」思い出して。「出たらお前を真っ先に殴るんだった」
「ああそうね」ルーがくすりと笑った。「あたしもあなたに一発食らわせるつもり」
「本当不思議だ」本気で怖そうに。「あれだけここから出たかったのに、もう一生出る気がしない」俺とルーの笑いが、重なる。「いや本気で。嘘じゃなくて」
「きっとその方が、幸せなのよ」いえ、と重ねて、「あなたがそう思えないってことは、私もクライスも、二度とあなたに会えないってことだったろうから」
 生きているということ。それは、……それだけで、素晴らしいものだ、と思った。よく解らないけれど、俺はもういい加減高望みはやめるべきだった。ここから出たら、本当に一発殴って、それでまあ、後一年か二年ぐらいは、一緒に過ごそう。……もう本当にそれで、いいのだ。
「光」カイルが目を見張る。「光ってきれいだ」
 俺とルーがうなずく。暗闇から見る光明は、何の鮮やかさもないのに、この世界全部の色彩を抱きしめているような、やさしい匂いがした。さあ、とルー。俺とカイルが駆け出す。夏風が、溢れんばかりの太陽の光が、世界のにおいが、見える。走る。走る。ああ、これが終わりだなんてことは全然思わないで――走って、
 走って走って、
 そしてぶつかった。

「ねえ」ルー。
「これって、何かの悪い冗談かしら?」
「冗談で済ませてくれ」俺。
「おいおい嘘だろ」カイル。「いや本当に嘘だよなおい」
 俺たちはぶつかったのだった。何に?
「一体何なんだ、これは」
「壁」
 ルー。
「壁?」
「見えない、壁。魔力の」
 出口。こちらからは見えないが、外から見れば老人像の胸の穴。狭苦しい胸の穴と外界のあいだ、俺たちと世界のあいだには、一枚の壁があった。紛う事無き、正しい意味での壁――障壁が。カイルは顔を青くして、その透明な壁を触っていた。昔見た旅芸人のパントマイムに似てる――とかそんな軽口、叩けそうになかった。
「おいルー、これ解けんのか」地図を見たカイル。「出口はここしかない」
「……わからない。でも相当、強烈な魔法がかかってると思うわ」
「何で!」カイルの声は苛立っていた。こんなカイル、初めて見た。
「落ち着いてカイル。……たぶんこれ、洞窟の魔物を出さないように作動しているんだわ」
「設計ミスだ」俺。「だって、俺たちは入れたじゃないか」
「後から入れなくなったってことか?」カイル。「そんなの、あんまりだ」
「あんまりじゃない」ルー。「きっとこれ、あたしたちがあの最奥の遺跡に入ったから発動したのよ。かつてダーマの先人が魔界の扉をふせぐために遺した結界は、アンバランスな天秤の上に置かれていた。だから、神の御座に不用意にあたしたちが足を踏み入れたせいで、魔界の瘴気が吹き出てきた。そしてそれに反応して ――路は閉ざされた」
 路は閉ざされた。
「自業自得ってことか」カイル。「おい、ルー」
「……言いたくないけれどそういうこと。そしてもう一つ、言いたくないこと」
 ルーは息を吸って、咳き込む。太陽はあんなにも間近にあるのに、まだまだかび臭い空気を吸わなきゃならないなんて。こんなところにずっと居たら、ルーの身体にも悪そうだ。不思議と俺の頭は冷めていた。麻痺していると言っても良かった。
「……今調べてるけれど、解除には相当の時間がかかるわ。強引に魔力をかけてみるけれど」つまりそれは。「つまりそれは、あたしはしばらくここから動けない、ということ。だからその間、あなた達にはあたしをしっかり守ってほしい」
「言いたくないことはもうないな」俺。
「悪いけどもうひとつある」
「早く言えよ」
「あれが――あの馬の魔物の気配が、近づいてくる」
 俺とカイルが、顔を見合わせた。……おいおい嘘だろ、って視線を、二人で交わす。魔力に、何か乱れがあるの。ルー。あれだけ間近に迫ってきたら、あの魔物の気配ぐらい、魔力で察せるものなのよ。俺は嘆息した。ひとつはルーの魔力に。
 もう一つは近づいてくる、悪魔の足音に。
 まだ遠かったが、それは俺にもはっきりと聞こえた。腹立たしそうな足音。心の底から怒り狂っているのは見て(いや、聞いて)取れた。本来はただ狩るだけの、ささやかな遊戯が阻害された苛立ち。……はは、とカイルが笑った。絶望的だ。俺もそれに同意だった。もう、お終いだった。俺とカイルが、床に座り込む。疲弊が、甘く染み込んでくる。眠さと言ってもよかった。
 そのとき。
 ぱちん。
 叩く音。
 ぱちん。いやばっちん。
 もう一つ。
「痛っ」「痛え」
「ばか」
「何だよ」
「ばか」
「いや馬鹿だけど」カイル。「叩くことねーだろ」
「馬鹿なら馬鹿らしくちゃんと言うこと聞いて馬鹿正直に何とかする」
「俺は馬鹿じゃない」何となく抗議。「少なくともカイルよりは」
「私から見たら一緒よ。どっちもばか、ばか、本当にばかでばかでたまらない!」
「うっせーよばかばっか!」カイルが切れた。「それと結構いてーよ」
「約束の前倒しよ」息を、一つして。俺とカイルは、そのとき見た。ルーの眼を。泣きそうな眼を。「お願い、あたしを守って」それは、勝ち気な彼女の口から、とても出そうにない言葉だった。「あたし死にたくない。みんなが死ぬのを見るのもいやだ」
 僧侶の使命感、などでは決してない。そんなものよりももっと、大事な何かがあるんだ。
「オレだって」カイル。「死にたくねーよ」
「俺もいやだ」どんなに嫌なことが待ち受けてる外界でも。「死にたくなんか」
 息。けたたましい、馬の息が、間近に。
「もう逃げられない」ルー。「あたしはピオリムとマヌーサをかける」
 素早さを上げる呪文。敵に幻覚を見せる呪文。
「ただの時間稼ぎよ。……あなたたちが必死に引きつけている間に、私は障壁を解除する。いいわね?」
「そのあとは?」問う。
「もちろん、逃げる。青い人馬を倒せたら、それが一番いい」もちろん無理だ。「でもきっと無理。だから、あいつが追いかけてきても逃げる。逃げて逃げて、村に戻るの。今の時間帯ならきっと」
 洞窟の外から差し込む太陽の光。
「オレたちだけじゃ無理でも、村の皆が力をあわせれば」カイルが面白く無さそうに言った。
「まだ引き摺ってんのかよ。大人の力を借りるの」思わず笑った。
「いや、わかってる。確かにおもしろくねえけど。だってこれ、能力の限界だわ。誰がどう見てもさ」カイルも笑った。それはある意味で、認めるという行為だった。
「それぞれ、どうするかだな。戦力はそうだな、俺――戦士と、あとカイル……」先はなんだか言えなかった。
「オレは……ちゃんと使えるかは解らないけど、ボミオス」素早さを下げる。「後とりあえず、大声出したり、逃げたり、たまにメラとか」鼻をかいて。「だめか」
 武道家ではない。魔法使いカイル。
「上出来よ」ルー。「昨日のあなたなら、ちょっと考えられないぐらい」
 そいつが、そいつが、来る。
「あー、俺は」こういうとき、前衛はつらい。「とりあえず注意を引くとか」
「大ざっぱね」笑って。「でもそれでいいのよ。必ず生きて帰ろう」
 必ず生きて、帰ろう。ルーの言葉に、二人同時に頷く。
 そしてそいつは来た。よだれを垂らして、正直見ているだけですげえ嫌だ。「もういい加減諦めてくれよ」そう言って、カイルが呪文を唱え始める。ルーがそれに倣う。――結界のおかげか、そいつはそこら中に切り傷を作ってはいたものの、持ち前のタフさか全然ダメージを受けてないようだった。代わりに切れていた。そいつは物凄い声量で咆哮を上げて、
 ――カノンは囮になりました。挑発の声は、もう聞こえません。
 そんなこと考えてる場合じゃない! 俺は翔る、そいつの眼と俺の眼、覚悟だけはこっちの方が上だ。そいつの手が、斧を握りしめる。
 一閃!
 すんでのところで、ルーが呪文を唱え終わった。ピオリム! 物凄い勢いで斧が通り過ぎるのが見えた。腰が、抜けそうになる。……ルーが次の呪文に入る。体勢を立直す。賭ける。「おい、馬野郎」左手の親指を、真っ直ぐ下に。「しつこい男は、みっともねーぞ!」人語を解したかどうかは解らないし、我ながらなんと微妙な挑発文句かと思ったが、挑発ということが解るだけの頭はあるらしかった。
 そしてそいつは斧を構え、真っ直ぐこちらに突っ込んできた!

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