第七話 『音楽と人と』

 健康ランド富士。
 その名の通り、その外観には富士山を模した看板が掲げられていた。名は体を現す、とは昔の人はよく言ったものだとは思うが、ここまでアピールされたら、その名言すら霞んでしまいそうだ。その堂々たる看板の下にある扉を開けて中に入ると、受付に男が一人立っていた。
「いらっしゃいませ……あれ、もしかして林昌さんの親戚の?」
「あ、翔君にピーコ君。ノゾちゃんにメグちゃんじゃないか!」
 受付の奥から顔を出したのはケイタさんだった。
「正博さん、この子たちですよ。比奈の面倒を見てくれていたのは」
「そうか、君たちが……! 比奈と遊んでくれてほんとにありがとう、ありがとう」
 正博さんは心から嬉しそうだった。ヒナちゃんのことをとても大事にしているのが、そこから伝わってくる。
「今年は本当に良い年だ。慶太も遊びに来てくれるし、君たちみたいな良い人がヒナの相手になってくれるし」
「はは、来年も来ますよ。毎年、沖縄には来ていたけれど、この島には来ていなかったのが悔やまれます。それほどまでにこの島は素晴らしいです――あ、はい。何でしょう?」
 ケイタさんはお客さんに声をかけられて、そこで会話を切り上げて奥の部屋へと入っていった。
「慶太はすごくいい子だよ。久々に会ったけど、立派に成長して……。今はああ言ってくれたけど、忙しい合間にここの手伝いをさせるなんて申し訳ないよ。本当は両親の住む石垣も訪ねたいだろうに」
 そう言えば、ケイタさんは海外で働いてると言っていた。日本に帰る回数も少ない上に、両親が住むのは石垣島だと言う。石垣島は沖縄県の南に位置し、こちらは正反対の北に位置する。このどちらもを一回の帰省で訪れるのは無理な話であった。
 本当のことを言えば、アメリカから日本に毎年帰ってくること自体が大変だろう。しかし、たとえどんなに遠い場所に住んでいても、お祭りの時期には帰省する人が沖縄人には多い。島の文化を重んじ、島と共に生きるものの本質がそこにはある。祭りは島の文化の代表だ。だからこそ、皆、祭りのときには帰ってくる。沖縄の祭りは、夏に行なわれる。
 ケイタさんもきっとそうなのだろう。だから、昨年までは石垣島に帰省していた。今年ここに来たのはたぶん――
「リゾート地として本格始動した直後でうちも本当に人手が足りなくてさ。慶太には無理して来てもらったんだよ。本当は弟の正太に声をかけたんだけどね。どうしても外せない研究があるらしくて、かわりに慶太が来てくれたんだ」
「研究?」
「ああ、正太は今、慶太と同じようにハーバード大学に通ってるんだよ」
「ハーバード!?」
 全員の声が見事なほどに同調した。
 ――ハーバード大学。おそらく世の中のほとんどの人が知っていて、知らない人の方が珍しいであろう。世界最高峰と賞される大学である。ショウタ、そしてケイタさん、なんて賢いんだ。
「うちの弟の息子二人なんだけどね、なんでここまで賢いのか不思議だよ。まったくもって、トンビがタカを生んだ、とは正にこのことだよ」
 正博さんは、自分で言った台詞に一人で笑っている。
「そういえば、ヒナちゃんはどこですか?」
「今はちょっと、買い物を頼んでてね。もうしばらくしたら戻ってくると思うよ。お風呂あびてから、ゆんたくルームにおいでよ」
「ゆんたくルーム?」
 “ゆんたく”は沖縄の方言で、おしゃべりとか会話を表す言葉だったと思う。亡くなったじいちゃんがよく使っていた言葉だ。
「ああ、談話室だよ。旅行に来た人がおしゃべりしあったり、現地の人が観光客としゃべったりするんだ」
「それはいいね! ヒナちゃんとまたしゃべれる!」
 正博さんの説明で、俺は自分の記憶が正しかったことを理解した。おしゃべり、という言葉を聞いてメグが歓声をあげた。
「ライブステージもあってね。三線やギターも置いてあるよ。たまに、プロの人が演奏してくれるんだけど、今はあいにくと誰もいなくてね」
「なーんだ。プロの演奏聞けたらよかったのに」
 残念そうにメグが言うと、ピーコが思い出したように言った。
「翔……おまえ、三線弾いてへんかったっけ?」
 そういえば、兄山に登ったときにちょろっと弾いたのをピーコが聞いていた気がする。しかし、ライブステージで披露できるような腕前じゃない。
「それはいい! ぜひ弾いてくれよ、翔君」
「あたし、聞きたーい!」
「私も聞きたいな、翔の演奏」
 正博さんがはやし立てるものだから、二人が口々に催促する。
 瞬間的にこれはまずいと、俺の直感が敏感に危険を察知する。このままでは、ステージで弾かされるなんてことにもなりかねない。
「いや、そう言ってもステージ経験なんてないし!」
「ぼくちゃんも聞きたーい!」
 ピーコがどさくさに紛れて言う。よくよく考えればこいつが全ての元凶だ。俺は、にたにたと笑うピーコを強く睨んだ。
 が、当の本人は悪びれた様子もない。何とかして仕返しできないかと思案したとき、天啓のごとく一つの事実を思い出した。そうだ。ピーコは以前、大学の文化祭でギターを弾いていた。一度聞けば何でも耳コピできると公言していたこともはっきりと覚えている。
「ピーコさーん、一度聞けば耳コピできるほど、ギターがお上手でしたよね? 文化祭ライブでばりばり演奏してらっしゃいましたよねー?」
「え?」
 まさか自分に白羽の矢が立つとは思っていなかったらしい。返す言葉もないピーコを、ここぞとばかりに畳み掛ける。
「ボーカルもお手の物で、あの沖縄事変のボーカルのヨシも真青な声量だとか?」
「え、そんなにすごいの!?」
 メグが期待の声をあげる。俺は実際にピーコのギターとその歌声を聞いたことがあるが、それなりに上手だった。素人なりに聞いても、プロレベルとはいかなくても、そこらの路上ミュージシャンよりは遥かを凌ぐ技量を持っているように思えた。決して、言い過ぎではないだろう。
「え、沖縄事変もびっくりなのかい!?」
 ここで思わぬところから声が上がる。正博さんだ。
「ぜひ、演ってくれよ。比奈も喜ぶよ。沖縄事変のファンなんだ。いやしかし、三線とギター、ボーカルか……第二の沖縄事変だな」
 二人をその気にさせるつもりが、正博さんをその気にさせてしまったらしい。一人で何やらぶつぶつ呟いている。
「第二の沖縄事変、富士で緊急ライブ……これはいけるぞ……」
 何がいけるのかさっぱりわからないが、一つだけ気づいたことがある。三線まで頭数に入れていると言うことは、俺もしっかりとライブステージに立つことになってしまったということだ。
「二人で沖縄事変をコピーするの!? すごいすごい!」
「翔とピーコの演奏、楽しみ!」
 メグとノゾが黄色い声をあげる。ピーコは呆気にとられていて言い返す余裕もないようだった。ざまあみろ。
「よし、決まりだ。ライブステージの設置は僕に任せてくれ! 今から三線とギターの弦もチェックしてくる! 第二の沖縄事変の演奏を聴けるなんてすばらしい、いける、いけるぞー!」
 正博さんなんて一人でエキサイトしてしまっている。相変わらず、何がどういけるのか、さっぱり理解できなかった。
 しかも、第二の沖縄事変とか言っちゃってるし。俺、もしかして自分でハードルあげた? 最初は軽く弾き語りをさせる感じで正博さんも話していたのに、今やステージで演奏するという話になっている。
「頑張ってね、翔、ピーコ!」
「ファンとして応援してるよ、翔さん!」
 まだ一度も聞いたことがないのに、すでにファンと化した二人から声援をうける。引くに引けない状況だった。ピーコを見ると、こいつもやめるとは言い出せないらしい。何やら一人で葛藤している様子だったが――
「よし、わかった! 俺と翔で演奏したる!!」
 いきなり声を張り上げるピーコ。どうやら、目立ちたい気持ちのほうが勝ったらしい。
「思えば旅行先で演奏なんて、人生に何回あるもんかわからへん。やらな損やで!」
 これが関西人とそれ以外の人の違いかもしれない。機会はフル活用しないと損。損とか得とか、そういう問題じゃないだろうに。
 しかし、ピーコにギターの話をふったのは俺だ。ここで俺が引くわけにはいかない。
「言っとくけど、ほんと聞けたもんじゃないぜ」
 そんな俺に、正博さんは親指を立ててぐっとポーズを決める。
「大丈夫さ! 君たちならやれる!」
 何が大丈夫なのか。根拠がまったくわからないことを言ってのける正博さんに思わず苦笑する。
「その前に……風呂入りたい」
 俺の申し出を受けて、正博さんは風呂場までの道順を示した。料金は何だかよくわからないけど、割引券を使わないでも無料だった。そこに正博さんの期待が現れているのがひしひしと感じられた。

 ノゾとメグは女風呂、当然、受付で別れて俺とピーコの二人で脱衣所に入る。脱衣所は相当な広さを有していた。扇風機、ドライヤー、体重計など普通の銭湯にあるような設備は一通り整っていた。よくよく観察してみると、雑誌やテレビの置いてある休憩スペースもある。これだけの広さを持っていて、脱衣所の外にも様々な設備があることを考えると、普通の温泉よりも遥かに優れているに違いない。
 ――そして温泉の風景の定番と言えば。
 よく全国のお父さんがパンツ一丁で家の中を歩き回ることは周知の事実だ。それに対して娘が「お父さん、パンツ一丁でうろうろしないでよ!」と返す。こんなお決まりのパターンがあるが、これは風呂上りの解放感からやっちゃうんだという説が有力である。しかし、それもまだましな方だということを目の前の光景は教えてくれる。
 ここには解放感の頂点、股間丸出しで雑誌を読みふけりテレビに熱中して騒ぐオッサンの姿があった――服着てから休憩しろよ。
「翔、はよ脱いで入るで」
 そんな光景に見とれていると、ピーコはもうすでに一糸まとわぬ姿になっていた。一糸まとわぬ姿。言葉の通り、一切隠していない。俺は最初、タオルを巻いて股間を隠そうとしていた。しかし、それは逃げを意味するだろう。何事も初めから楽な方へと逃げてはいけない。ピーコの男らしい、堂々とした態度を見ていると、自分がちっぽけなものに思えてきた。負けられない何かがそこにはある。
「おう、ちょっと待て」
 俺はすぐに服を脱ぐと、一糸まとわぬ姿に。これで互角だぜ、ピーコ。男にしか理解できない対抗心を燃やしつつも、シャンプー、ボディーソープの類の用意をする。
「あ、俺そんなん持ってきてへんかったわ」
「いや、俺も持って来てないぞ。これ、ホテルの浴室に置いてあったやつだ」
「あ、そうなんや。気が利くやん! んじゃ、ひとっ風呂浴びまっか!」
 脱衣所もさることながら、浴室も相当広かった。俺の家より広い。これは、俺の家の風呂より広いという意味ではない。俺の家の全敷地よりも広いのだ。こう言うと、俺の家が世間一般に比べて小さく思われるかもしれないがそんなことはない。大阪にたたずむ、我が金城家は平均的な敷地面積を有する。
 つまり、この温泉が大きすぎるのだ。露天スペースあり、打たれ湯あり、ジャグジーあり。さらに電気風呂もあり、当然のようにサウナもある。ざっと見渡しただけでそれだけの設備が目に入るのだから、じっくり調べてみたらきっともっと凄いんだと思う。
 ピーコはその凄さに感動したのか奇声をあげると、一番近い浴槽に勢い良く飛び込んだ。盛大な水しぶきがあがる。
「おい、迷惑だろ!」
「今は空いとるんやから、ええやん!」
 ピーコに言われてみて初めて気づいたが、広さの割りには人が少ない。おそらく今が夕食時なのが原因じゃないかと思う。風呂は夕食後に入るものだ。
 そんなことを考えながら、俺もピーコと同じ浴槽に入る。さすがに空いてるからと言ってこんな馬鹿と同じように飛び込んだりはしない。ゆっくりその暖かさを味わうように足から順につかる。湯船の温かみが徐々に体へと浸透してくる。
 ――気持ちいい。やっぱ日本人は風呂だ。大阪にいるときは、手っ取り早くシャワーで汗を流して終わりだった。確かにシャワーは便利だが、あれは駄目だ。この気持ち良さは旅先の大風呂でしか味わえない。これこそが旅行の醍醐味とも言える。
 そもそも、入浴とは人類が編み出した最高の娯楽ではないか。心身共に清め、安らぎを得る。そこにあるのは、汚れを流すという、ただの行為ではない。心から気持ち良いと感じる喜び。ああ、人類って素晴らしい。
 そんなことを感じていると、立て札が目に付いた。ここの効能を書いてある。
『神経痛、胃腸病、関節痛(腰痛)によく効きます。特に疲労には効果的な成分を含んだ天然の温泉を利用しています』
 そうか、道理で心地よいはず。天然の温泉を利用してるんだもんな。
 うん、沖縄に温泉などあっただろうか。そもそも銭湯があったかどうかすらも怪しい。
「はっはっは。気がついたかい、翔くん!」
 軽快な笑い声が聞こえると同時に、水しぶきが舞う。この声はケイタさんだ。
「うわ、何するんですか!」
「ごめんよ、人が少ないからついつい。ははは!」
 仮にも今はここの従業員だろうに、ケイタさんは悪びれた様子もなく笑ってみせた。そういえば、仕事中ではないのか?
「ははは、僕の仕事はピーク時のお手伝いだけでね。今は後から来るピークに備えて待機中さ。温泉って夕方から夜にかけて利用客が多いだろう? その時間の人手は本当に足りなくなって困るそうなんだ。それ以外の時間は逆に、暇なもんで、僕なんていてもいなくてもいいくらいだよ」
 ケイタさんは曇った眼鏡を、指先で拭った。
「眼鏡はいけないなあ、こういうときに不便だ」
 そう言って眼鏡を外したケイタさんの顔は、ものすごく整った顔立ちをしていた。
「ちょっと、ケイタさん。眼鏡外すとめっちゃかっこええやん! それ、眼鏡かけて損しとるで! コンタクトにせんと、彼女でけへんで!」
 ピーコがそんなケイタさんを見て、まくしたてる。ケイタさんは照れくさそうに笑ってみせた。
「コンタクトは苦手だからさ……それに、彼女はいらないよ。一人が気楽なものさ」
 そう言うケイタさんの顔は少し寂しそうに見えた。やっぱり、男の一人身って虚しいものなのだ。しんみりとした空気が漂う。それを破ったのは、やはり最年長のケイタさんであった。
「そうだ。沖縄にはお風呂に入る文化がなかったって知っていたかい?」
「え、そうなん!?」
 ケイタさんの気遣いに乗って、ピーコが相槌を返す。
「身体さえ洗えればいいという考えが強かったらしくて、昔は湯船がなかったんだ」
 沖縄に元来、風呂文化はない――つまり、浴槽がない。これは聞いたことがあった。南月島のような離島では、現在でもほとんどの家が湯船を持っていないそうだ。じいちゃんの住んでいた那覇でさえそうなのだ。流石に湯船を持った家はあるが、銭湯などは那覇でも見たことがない。地図上で確認してみて“お風呂屋さん”とされているものは、その全部が“ソープランド”。いわゆる風俗である。
「昔からあった温泉を改良して、この富士は作られたそうだよ」
 昔からあった温泉――いやちょっと待て。沖縄はサンゴ礁でできていなかったか。全てがサンゴ礁でできている島、沖縄。先ほども疑問に感じたが、そんな地に温泉など湧くのだろうか。
「サンゴ礁でできた島に温泉なんて沸くのかな?」
「ここは鹿児島県よりだからだろうね。島はサンゴ礁の上じゃなくて、ちゃんとした地面の上にあるんだよ。こう見えて僕は地質学者の職に就いているから、これは信用してくれていいよ」
 ケイタさんはそう言うと笑ってみせた。
「地質学者?」
「ああ、平たく言えば公務員みたいなものなんだけど、アメリカの地質などを調べて環境の変化を調査しているんだ。詳しく説明するのはちょっと難しくてできないなあ――」
「――なんね、よそもんか」
 ケイタさんの言葉を遮ったのは、一人の老人の声だった。
「なにがリゾートだか、わったー島を……なんでかねー」
 老人は不満げにぶつぶつと呟いている。俺たちの視線を受け止めると、入ってきてすぐにも関わらず風呂を出て行った。出るときに、引き戸の扉をぴしゃりと強く音を立てて閉めた。どうやら、怒っていたようだ。
「ん、なんやったんや、今の……」
 ピーコが呆気にとられて言う。
 おそらく、あの老人は余所者の俺たちがいたから気分を害して帰っていったのだと思う。ナミーさんはまだ、俺が沖縄の血を引いているから納得したが、当然そうでないものもいるだろう。沖縄の人であっても、島の人でなければ余所者だという認識をする人もいる。それが今の老人だったのだろう。俺は改めて、老人たちと自分たちとの壁の大きさを実感した。
「あ、えーと……、そうだ! 二人はライブをするんだろう? 僕も音響で手伝うよ!」
 ケイタさんがフォローのために切り出した話題で、俺たちはようやく重要な課題を思い出した。
「……しまった。曲目も何も決めてない」
 俺の顔をピーコはうかがっている。そうなのだ。ピーコはギターだから、たいていの曲に合わせることができる。しかし、三線の場合、特に俺のようなプロの三線弾きでない場合は演奏できる曲がある程度限られている。
「曲目を悩んでいるのかい?」
 俺が肯定すると、ケイタさんはしばし悩むような顔を見せたが、すぐに表情を戻した。
「さっきのでわかると思うけど、島のお年寄りは聞きに来ないと思うよ。客層は観光客と、島の若い連中……両方のニーズを考えると、本土でも有名な沖縄の歌になるだろうね。所要時間は長すぎても短すぎても駄目だから、四曲くらいかな」
 ケイタさんはそう言って三つほどタイトルを述べた。しっかりとした観察に基づいた、的確な意見だった。俺もピーコもそれに賛成する。
「残り一曲は、比奈のためにも沖縄事変の曲をやってくれよ。ほら、新曲のあれがいい。この島にぴったりじゃないか」
 ケイタさんが言わんとする曲が何かわかった。
 ――人魚の涙。ひとりぼっちの人魚の気持ちを表現した歌。歌詞に出て来る人魚は、人魚ながらの不老不死の身体のために、延々と孤独と共に生き続ける。しかし最後にはもう一人の人魚と出逢い、一生のパートナーを得る――悲しいけれど、最後には幸せになれるという歌。
 沖縄事変はバンドだが、この曲だけは映画『人魚の涙』の主題歌であることをイメージしたのか静かな曲調で、三線とアコースティックギター、キーボードの三つしか楽器は使われていない。これならば――
「キーボードが無くても、三線の単音とギターの和音があれば、メロディとして問題ないな」
「決まりだね。ここはほとんどの設備が整っているから、問題なく演奏できると思うよ。機材を扱う人も、僕と正博さんの二人だし」
 ケイタさんはそう言うが、なぜ、二人ともそんなに音楽に明るいのだろう。
「ああ、弟の正太が音楽好きでギターをやっててね。元をただせば、弟の音楽好きは正博さんが原因だ。そうだなあ、弟は音楽好きだけど、正博さんは音楽馬鹿って感じだね」
 俺の疑問にケイタさんは、安心のできる答えを返してくれた。つまり、そう、何も問題ないのだ。
 ――賽は投げられた。
 俺たちは最低限のことだけを話し合うと、そのあとは温泉を楽しんだ。温泉に来たのに、それを堪能しないなんて温泉の神様が怒る。そんなことを考えながらしばしの温泉を楽しんだ。

 風呂場で長話をしたせいか、頭がくらくらする。どうやらのぼせてしまったらしい。脱衣所ですぐに着替えると、脱衣所に設置されているソファーに横になった。
「翔、情けないで?」
「だってほらお前、ありえないだろ。湯船の全制覇とか」
 俺とピーコはあの相談のあと、調子をよくしたケイタさんに無理矢理誘われて、全ての種類の風呂に入らされた。ちなみにケイタさんはすでにライブの準備のために、『ゆんたくルーム』へと戻っている。
「ほんと、元気なやっちゃな」
 ピーコは自販機を操作しながら苦笑いした。ケイタさんは正に温泉狂――温泉の鬼だ。温泉について次から次へと熱く説明するケイタさんを思い出したのだろう。あれならまだ、温泉の神様に怒られたほうがましだった。
 ガタンと小気味良い音を鳴らして、ジュースが出てきた。ピーコは続けてもう一度、自販機を操作する。
「それ飲んでもうて、はよリハーサルで音合わせしよや」
 ピーコは二本買ったうちの一本を俺に渡してくれた。俺は礼を言うと、すぐに飲み口を開けた。ぷしゅっというあの炭酸の抜ける音を予想したが、気を利かせてくれたのか飲みやすいスポーツドリンクだった。一口飲むと、少し甘い独特の風味が口中に広がった。ほてった身体にその冷たさが心地よい。
 次第に意識がしっかりとしてくる。
「……人魚の涙、か」
「何や?」
 俺の呟きをピーコは聞き逃さなかった。
「いや、さ。ここって人魚の出る島だろ。人魚の涙って曲、ぴったりじゃないか? 実は、映画の人魚の涙はこの島の人魚伝説からインスピレーションを得て作ったらしいぜ」
「そら初耳やったわ。せやけど、わかる気もするわ。南月島の人魚伝説……嘘くさく聞こえるけど、あのミイラはほんまもんとしか言いようなかったでな」
 ピーコは俺と同じ、理学部生物学科だ。生物に関して、俺と同じくらいの知識を持っている。だから、俺と考え方も同じはずなのだ。
「ああ、作り物っていくら巧妙に隠したところでどこか嘘臭いオーラが出てるんだよな」
「同感やわ。ほんまもんとまがいもんの違いくらい、生物学部やったらようわかるわ」
 これは屁理屈でも何でもない。ただの事実。一般人の中にだって、人魚のミイラが本物かどうか分かる人もいるだろう。しかし、生物学を勉強する者が見ればそれよりも遥かに正確な判断を下せる。
 あのミイラには作られた雰囲気――たとえば何かと何かを継ぎ合わせた痕跡なんてのは見つけられなかった。もし、きちんとしたレントゲン検査や薬品を使った研究をすれば、この考えも変わるのかもしれない。しかし、あれだけを見ると偽者だと言い切ることは不可能だ。
「まあ、あれやな。メグとかノゾちゃうけど……人魚おったほうがロマンチックやし、別にあれはあれでええんかもな。本物かどうかは確認せんでもな」
 ピーコの言うことはもっともだ。
 知的好奇心からついつい真相を知りたくなってしまうが、ロマンチックの欠片も理解できないようじゃあの二人に嫌われてしまう。
 話しているうちにだんだんとのぼせた頭も正常な思考を取り戻してきた。
「そりゃそうだ――さて、ピーコ。正博さんのとこ行こうか」
「そやな。もう落ち着いたんやったら早く練習せんとな。間に合わんでー!」
「わかってるわかってる」
 空き缶をゴミ箱に放り投げた。ゴミ箱に見事、ホールインワン。それを合図に、俺たちは男のくつろぎの地――脱衣所を後にした。
 ゆんたくルームは受付を過ぎた先にある。受付――先ほど入ってきた玄関の前に着くと、正博さんが待ち構えていた。
「翔君、ピーコ君! こっちは準備万端だ!」
「ヒナちゃんとケイタさんは?」
 正博さんはにこにこと嬉しそうだが、二人の姿は見えなかった。
「中でステージの設置をしているよ。弟の正太の影響で、慶太はアンプみたいな音響には詳しいんだ。さあ、リハーサルをちょっとやったらもう本番に取り掛かるからね!」
 正博さんはやる気満々だった。半ばぶっつけ本番なこのライブであったが、正博さんの言葉を聞いて安心した。
 聞くのは島の人や観光客だけだから、緊張しなくていい。俺は正博さんのその言葉を免罪符に、やりたいだけやるつもりだった。
 ――あとは、ただ歌うだけ。

 リハーサルを終え、俺たちは本番を迎えた。目前には多くの観客がいる。
 俺はとにかく歌った。ピーコのギターは完璧で、俺の三線も完璧だった。自分の中の出せる最大の力を出し切ったつもりだった。思いのほか広かった会場で、思いのほか多かった観客を前に俺は精一杯歌った。ある曲では平和への祈りを、またある曲では汚れていく島への悲しみを。また別の曲では生きることの楽しさを。俺は歌った。とにかく歌った。
 今歌いきったアップテンポな曲は、みんなで歌って踊れば良い曲だった。正博さんの誘いで誰も彼もが歌って、踊って、笑った。メグもノゾも、ケイタさんもヒナちゃんも正博さんも、島の人たちも観光客も、みんな笑った。その笑顔を見れたことが、この旅行での最大のお土産だなと思う。楽しい一時を皆に過ごしてもらった――いや、皆で過ごしたことを俺は一生忘れないだろう。
 そんな想いを噛み締めつつ、俺は言う。
「南月島には人魚が住んでいたと聞きます。人魚は何人いるのでしょうか?」
 会場に問いかけてみる。
「まだ……この島に人魚がいるのかもしれない。けれど何人もいるなら目撃されててもおかしくない。だから残っている人魚がいたとしても……それは一人なんだと思います」
 この島に本当に人魚がいたのか、そして今もいるのか。俺にはわからない。しかし、もしいるとすれば……おそらく彼女、もしくは彼は孤独を抱えて生きているだろう。
「この島の伝説をモデルにした『人魚の涙』という唄があります。これは、沖縄出身のバンド『沖縄事変』の唄で、この夏公開中の大人気の映画の主題歌。この歌は一人ぼっちの人魚の悲しみを歌った唄。けれども、最後には彼女は想い人を見つけて幸せになる。彼女の悲しみではなく、喜びを感じてください」
 ――人魚の涙。俺が小さくそう言うと、ピーコはそれを合図にゆったりとしたバラード調のメロディを弾き始めた。
 この唄はそんなに長くない。しかし、その短い中に強い思いが凝縮されている。
 この歌ならばあるいは人魚にも届くかもしれない。俺はそんな夢みたいなことを思い浮かべながら、歌い始めた。

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