第十六話 『暗闇の中で』

 ――さみしい。
 ――あいたい。
 ――あなたはどこ。
 ――わたしはここ。
 ――あなたは……どこ?

「あなた……俺? 俺は……」
 誰かの声がしたような気がして、俺は思わず返事しながら飛び起きた。思うように身体が動かない。しかし緩慢な動作で俺は起き上がった。
 見渡す限りの闇。俺の目の前は真暗だった。もっと目を凝らそうと試みるが、頭が痛んだ。痛い。ずきずきする。思わず後頭部を触ってみるが、案の定、そこには大きな瘤ができていた。どうりで痛いはずだ。
 現状を把握しようと身体を動かそうとするが、強張っていて起き上がる動作すらぎこちなかった。
「……ピーコ?」
 暗闇に向けて呼びかけるが、答える声はない。
「ノゾ? メグ? ヒナちゃん?」
 続けざまにみんなの名前を呼ぶ。しかし、漂うのは静寂だけであった。
 そうだ。携帯電話をかければ――俺はそう思って、闇の中、手探りでポケットを探す。あった。折りたたみ式のそれを開くと、液晶画面の明かりが暗闇の中、儚げに光った。
 しかし、だめだった。アンテナが立っていない。これでは通話はおろか、メールを送ることすらままならない。こんなもの、今の状況ではまったくの役に立たないじゃないか。
 何がどうなって、俺はこういう状況にいるのか。冷静になってみようと、俺は考え始めた。
 俺、ピーコ、ノゾ、メグは祭りに行った。その帰りにヒナちゃんと会った。ケイタさんがいなくなったことを知った。ケイタさんを探すために廃病院に行った。そこで怪しげな階段を見つけて降りた。その先に――
「――そうだ、死体だ」
 思い出した。俺たちは白骨死体を見つけた。それでみんなパニックに陥って、離れ離れに。俺はノゾたちを追いかけようとして足を滑らした。そして、頭を打った。
 ――ということは、まだこの近くに白骨死体がある。しかし不思議と恐れはなかった。一度、頭を打ったせいかもしれない。目覚めと共に恐怖はどこかへ行ってしまったようだ。どうせならあの死体が何なのか確かめてみたいが、明かりがない。
 いや、あった。今、持っている明かりが。
 俺は携帯電話のライト機能をオンにする。普段はほとんど使うことのない機能だったが、このときばかりはこんな機能にも感謝する。うっすらとほのかな明かりが薄暗い地下道を照らし出す。明かりに照らし出された岩壁がやけにおどろおどろしい。
 それはすぐに見つかった。ほんの数十メートル先にそれはあった。倒れている人。いや、人ではない。もう死んでしまっているのだから。
 俺は今度こそ転ばないように、その死体に向かって慎重に歩き始めた。なるほど、この距離から見れば人が倒れているように見えないこともない。それでみんな、これがケイタさんだと勘違いしたのだ。
 近づいてみると、ようやくその輪郭がはっきりとしてくる。白い骨。長い年月の間に襤褸のようになった服。脈を測るまでもなく、これは死んでいた。白骨死体の首は第一発見の際に強く揺さぶったために折れてしまい、遠くに転がっていた。すでに風化してしまっていたのもあり、俺はその死体を冷静に観察することができた。これがもし、まだ肉のついた状態であったならそうはいかなかっただろうと思う。スプラッタ映画のそれを思い浮かべて、俺は慌てて頭を振った。
 ……それにしてもなぜこんな場所に白骨死体があるのか。外から見ただけではその答えを出すことは難しかった。俺は白骨死体のポケットを探ってみるが、何も持っていなかった。
「ふむ……」
 思わず一人ごちる。これはもう放っておくべきかと思ったそのとき、一枚の古びた紙が落ちているのを見つけた。どうやらもとは手帳であったらしく、紙には軸線が入っていた。そして、その軸線上には文章が書かれていた。
 ――日記。それは文字から見て、男のものであるらしかった。この白骨化した男が生前書いたものであろう。携帯電話のライトを頼りに俺はそれに目を通してみた。
『一九七二年五月二十日。沖縄が返還されたことを知り私は皆見月島に向かった。島名が変わっていたことには驚いたが別に何の問題もない。私は医歩に逢うためにかつて私が勤めた病院に訪れるのだから。島の人にはただの観光客であるように偽っている。そうしなければ、疫病神だと忌み嫌われた隔離病棟の関係者がこの島に訪れることはできなかったであろう。唯一の不安はあの生物実――』
 これから下は破れていて読むことはできなかった。
 しかし、この白骨死体の主が何者であるかは大体の見当がついた。行方不明者のうちの一人、つまり神隠しにあったとされた観光客の一人だ。最初に消えたのはアメリカの軍人……これは一人なのか複数なのか定かではないが、その次に消えたという一人目の観光客がこの白骨化した男なのだ。
 男は神隠しにあったのではなく、ここで生き絶えたのだ。
 男はここに何をしに来たのだろう? 手紙から読み取れるのは医歩という人物に会いに来たということ。この病院は終戦と同時にその機能を失ったと聞いていたが、アメリカ軍の支配下になってからも利用されていたのか?
 そもそも男がなぜここで倒れたのか。なぜここで死んだのか。死に至る何かがここにはあったのか。死に至る――死を見て成長する、怪物。昌子姉さんが言っていた怪物の話が今頃になって思い出された。
「あ……」
 思わず声が漏れた。うっかりしていた。少し調べるだけのつもりが時間を取りすぎた。早いところ、みんなと合流しなければ、もしここが危険な場所であるならば、早くみんなを見つけなければならない。
 白骨死体など調べている場合ではなかった。俺は自分の好奇心を恨んだ。そして、暗闇の中を急ぎ足で進みだす。ピーコたちの消えた方角へ。

 しかし、歩けども歩けども誰の姿も見えなければ、何も見つからない。同じような通路がずっと続くだけだ。しかしずっと続くと思いきや、途中で分岐点が見つかった。最初は左に行くか右に行くか悩んだが、どちらを選ぼうにも決めるだけの要素が無い。俺は適当に右へと進んだ。やがてまた分岐点が見つかる。携帯ライトだけが明かりの俺にとって、この分岐点は不安を募らせた。
 まさか兄山、もしかしたら弟山かもしれないが、その地下にこれだけの洞窟があるとは思わなかった。沖縄県ではこういったガマと呼ばれる洞窟はよく防空壕に使われる。その入り口を隠すように立つ病院。戦時中、敵軍によって攻め込まれてもここに逃げ込めば、相手を撹乱することは出来ただろう。当時ならば正確な地図があったに違いない。
 ……しかし、そんなことを想定してここに建物を建てたのか? 政府は第二次世界大戦が始まる以前に隔離病棟としてこの病院を建てた。以前から、軍事病院として使用するつもりだったのか? いやいや、それならば民間人である島民はどうするつもりだったのだ。島民を無視して軍人だけを逃がすとは考えられない。そんなことをしたら島民も黙っていないだろう。これだけ小さな島にある、こんな大きな洞窟だ。島民もその存在を知っていただろう――いや。知らなかったのか?
 洞窟があれば、島民も気づいただろう。しかし、なければどうか。洞窟はあっても、その入り口が地表になければどうか。この洞窟の入り口が隔離病棟を建てる工事の際にできたものであったとしたらどうか。……それならば地元民がここの存在を知らないでいても何らおかしくはない。当時から島民とこの病院の関係者との仲は悪かった。最悪と言っても良いだろう。ならば、島民がここの存在を知らない可能性も十分に考えられる。
 いくつかの仮定が頭の中で結びついた。
 隔離病棟を作る際に、将来、何かに使えそうな洞窟を見つけた。利用価値は、戦争を想定していたわけではなく、貯蔵庫や資材置き場として使うなどそのような代物であろう。病院として何かに使えそうなのでとりあえず、その入り口をキープしておいた。そんなところだと思う。
 考えがまとまりほっとしたところで、携帯電話が小さな電子音を立てた。メールを受信した音ではない。これは――
「電池切れ!? くそっ、こんなときに……」
 やがて携帯電話の画面のほのかな明かりは消え、あたりは暗闇に包まれた。
 昨日の夜、ピーコと恋話に夢中になりすぎたために充電をし忘れたことが思い出される。自分の愚かさが悔やまれた。しかしいつまでも悔やんでいるだけでは解決にならない。俺は壁に手を当てるとそれにそって一歩、また一歩と先へ進み始めた。
 歩く。ひたすらに歩く。
 今は一体何時くらいなのだろう。ふとそんな考えが頭によぎった。先ほど携帯電話の時刻を見ておけば良かった。動揺していたため、ずっと見るのを忘れていたのだ。もしかして、そろそろ日付が変わっている頃かもしれない。
 それにみんなは何処にいるのだろう。耳を澄ましても聞こえるものは俺の足音だけ。ひた、ひた。俺が歩く度にそんな音が聞こえて、何だか気味が悪かった。この前も後ろも右も左もわからない暗闇の中を歩き続けることは心細かった。今壁についている右手を一度離してしまえば、もう方角もわからなくなり、下手をすればここから抜け出すこともできなくなるかもしれない。
 この右手だけが頼りなのだ。この右手が命綱なのだ。
 以前、ゲームで得た知識だが、洞窟を歩く時は右手を壁につけてそれに沿って歩けばいつかは全てを周ることができると聞いたことがある。理屈からすれば当たり前だが、これには感心させられた。今そんな知識を思い出すことができて、本当に良かった。お陰で俺は少ないだろうけども、確実に進んでいるという実感を持つことができているからだ。
 右手に触れる壁は何だか生ぬるい。夏のせいかもしれない。ぬるぬるしたそれをずっと触っていると、何か未知の生物の皮膚を触っているような錯覚に陥る。もしかしたらここはすでに何者かの胃袋の中なのだろうか。そんな馬鹿げた考えが頭に浮かび、俺は慌ててそれを打ち消す。
 そんなことを考えている場合じゃないだろう。俺は早くみんなと合流するために先へ進んでいるんじゃないか。考えている暇があれば、足を動かせ。俺は少し足を速めた。一歩、また一歩と足を進めるたびに聞こえる足音。ひた、ひた。この洞窟にはそれが思いのほか大きく響く。
 ――ひたひた。ひた。
 一瞬、自分の耳を疑った。自分の足音に紛れて、微かな、だけども確かな音が聞こえたのだ。ピーコか、ノゾか、メグか、ヒナちゃんか、ケイタさんか。俺は思わず嬉しくなって口を開こうとして――閉じた。
 ……本当にそうなのだろうか。この洞窟に俺たち以外の何者かがいるとは考えられないだろうか。あの入り口で見た白骨死体が思い出される。そして、神主さんの話していた次々に行方不明になった観光客の話を思い出す。そして、消えたケイタさんのことを思い出す。この廃墟に来たものは帰って来ない。この廃墟には幽霊がいる。もしくは怪物がいるという噂。……この地下に何か潜んでいるのではないか。
 あの足音が俺の知る誰かのものではなくて、その怪物のものであったなら? 怪物だと馬鹿げているが、未知の生物だとしたらどうか。そうでなくても、獰猛な野生動物であったら? そんな動物がこの島にいるのかどうかはわからないが、いないと断言することはできない。この島の洞窟の入り口がひとつとは限らないのだ。あの緑生い茂る弟山のどこかに近年新たに入り口ができていたとしたら、そこから入り込んでくる可能性も捨てきれない。
 考え込んでいる間も、その足音は近づいてくる。なおも俺はゆっくりと足を進めていたが、壁にそわしていた右手が一瞬空を切ったことで足を止めた。どうやらこの先は曲がり角になっているらしい。
 ――ならば、ここで待ち伏せれば。足音は確実に大きくなっている。間違いなく俺のいる方へと近づいてきていた。ひたひた、ひたひたと。しっかりとした足音はその持ち主の存在の確実さを教えていた。
 近づいてくる足音であったが、先の手順はまったく考えていなかった。というよりも思いつかなかった。相手が俺の大切な仲間であれば問題ないが、相手が怪物であれば即座に逃げる。しかし、その境界線をどうやって判断するのか。もう、正面衝突のその瞬間に賭けるしかなかった。そのとき空気を伝わる雰囲気で俺は相手が何者かを判断するつもりだった。
 いよいよ、その足音の主が俺のいる角を曲がろうとする。今この角を挟んで俺とその何かは対峙している。俺は相手に気づいている。相手は俺に気づいていない。それだけが俺と相手の違い。
 もう覚悟は決まっていた。後は相手が来るのを待つだけ。そのつもりだった。しかし、まさか俺が壁についていた右手に相手の手がふれようなどとは想像もしていなかった。それと手が触れた瞬間、俺の身体が動いた。考える暇もなかった。身体だけが先に反応していたのだ。相手から離れて、右手も壁から離して逃げ出そうとしたまさに瞬間――ほのかな明かりが目についた。
 蛍。場違いだが俺の頭に浮かんだ言葉はそれだった。
「きゃあああ!」
 一瞬遅れて、悲鳴がする。
「ノゾ、落ち着け! 俺だ、翔だ!」
 俺は壁から手を離して駆け出そうとしたノゾの肩を左手で掴んだ。パニックに陥っているのかなおも逃げようとするノゾの身体を左手だけで引き寄せる。この右手は壁から離すわけにはいかない。そうすれば俺たちは延々とここで迷うことになる。何が何でも離すわけにはいかない。
 暴れるノゾを左手だけで抱き寄せる。妙な構図だと自分でも思ったが、そんなことを気にするわけにはいかない。
「いやあ、いやあ!」
「ノゾ、落ち着いて。大丈夫だ、大丈夫だから」
 俺は静かにノゾに語りかけた。
「しょ、翔……?」
「ああ、そうだ」
 体温を感じ、声を聞いた。そのことがノゾの緊張をほぐしたのだろう。ノゾは俺の胸に顔をうずめると嗚咽をもらして泣き始めた。よほど怖かったのだろう。俺でさえ、さっきは取り乱して逃げ出そうとしたのだ。女の子一人、こんな右も左もわからない暗闇の中をずっと歩き続けたのだ。心細くないはずがない。
「翔、翔、みんな、どこ行っちゃったのよ……怖かったんだから、怖かったんだから!」
「ごめん、ちょっと転んでさ。みんなとはぐれちまった」
 俺はつい謝った。
「翔は悪くない……そんなことより、怪我は!? 怪我はないの!?」
 慌ててノゾは俺の様子を調べようとしたが、暗くてわからないのだろう。その手は俺の身体を撫で回すだけであった。
「くすぐったい、やめろ、やめろって!」
 俺は思わず笑い出してしまう。
「ご、ごめん……でも、心配だったから」
「ちょっと転んでタンコブできただけだから、気にすんな。でも悪い、懐中ライトはそのときに無くしてしまった」
 ノゾは俺の頭をそっとさすった。
「痛ッ……」
「すごい、大きなコブ……」
「今はコブの心配なんかよりも、こうして会えたことを喜ぼうぜ。これも全てノゾのちゅら玉ネックレスのお陰なんだ」
 ノゾは言われて初めて、ちゅら玉ネックレスの明かりに気づいたらしい。俺も今の今まで忘れていたが、俺の胸元ではちゅら玉がほのかな光を放っていた。
「これなら、はぐれる心配もない……」
 ノゾの声が聞こえる。その顔は暗闇で見えないが、もう声の調子からして泣き止んでいるようだ。
「いや、待てよ。ノゾ、携帯電話持ってないか?」
「あ――」
 ノゾは携帯電話の存在をすっかり忘れていたらしい。取り出して画面を開く。その光でうっすらとノゾの顔が照らし出される。
「だめだよ、電波ない」
「そうじゃなくてさ、ライトだよ、ライト」
「あ、そっか」
 ノゾは片手で操作しにくそうにして、そして気づいたらしい。俺と抱き合っていたことに。
「ご、ごめん! くっつきすぎだよね、私!」
 慌ててノゾは俺から離れると、携帯電話のライトをつけた。
 真暗だった通路に明かりがともる。これだけで何だかとても心強い気分だった。対して、ノゾが俺から離れたのは少し心残りな気分だったが。
「私、どっちから来たっけ……」
 ノゾはそんな俺の気持ちには気づかず、きょろきょろと辺りを観察した。
「あっちだ。俺はこっちから来た。ノゾは入り口の方角へと戻っていたんだ」
 俺が断言したのでノゾは不思議そうな顔をした。俺が右手をずっと壁につけていた理由を話すと、ノゾはすごく感心した様子であった。たかだかゲームで得た知識なのにまるで俺が何でも知っているかのようにノゾは褒めた。この際、ゲームで得た知識なのは黙っておくに越したことはないので黙っておく。
「この長くて、真暗な道だと方向感覚が狂うのもしかたがない。それにパニック状態ならなおさらだ。ピーコたちが心配だ。あいつらは明かりがあるから大丈夫とは思うんだが……」
「翔と同じようにどこかでライト落としちゃってるかもしれないよ」
「その可能性もある。とにかく、どんな音も逃さないように歩こう。今から話すのは無しだ。耳を澄ますんだ」
 そう言うと、俺は歩き始めた。なおもその右手を壁につたいながら。そんな俺の左手をノゾの右手がぎゅっと握った。ノゾは反対の手にまるで松明のように携帯のライトを持っていた。
 まるでゲームの洞窟探検みたいだな。思わず苦笑するが、すぐに真剣な気持ちで前を見据える。この視線の先には何がいるかわからない。未知の生物か、獰猛な動物か。それらはもしかしたらいなくて、単なる杞憂に過ぎないかもしれない。けれども、いないとは限らない。今はノゾがいる。左手に感じる確かな温もりがノゾの存在を俺に伝えている。
 俺一人ではないのだ。俺はノゾを守る義務がある。みんなを見つけ出す義務がある。なぜなら、みんなは俺の仲間だから。仲間を守るのは当然のことで、そこに理由はいらない。怯むな、金城翔。じいちゃん譲りの度胸を今こそ見せてやれ。俺は心の中で気合を込めた。必ず、必ずみんなを探し出す。確固たる決意を胸に俺はノゾと歩き始めた。ゆっくりと、しかし、しっかりと。

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