第二十話 『別れ』
クルーザの燃料には限界があった。フェリーに連絡して待機してもらい、俺たちはフェリーに合流した。俺たちを乗せるとフェリーはまた動き出し、鹿児島県を目指した。
林昌さんと正博さんはフェリーに乗ると、老人たちを島の年寄りの利用している客室へと連れて行った。なんだかんだで心配する者もいたのだ。その人たちを安心させる必要がある。それに林昌さんには昌子姉さんが、正博さんにはヒナちゃんが待っている。二人とも、早く合流したい気持ちでいっぱいなのだろう。それは俺もケイタさんも同じだった。
俺とケイタさんは乗務員に案内されて、みんなのいる部屋へと向かった。そこは行きと同じ雑魚寝の部屋で、行きと同じようにみんなは固まって座っていた。
俺の姿を見つけて、ピーコが軽く手を振る。そして、腰をあげて俺に近づいてこようとした瞬間、それを押しのけてノゾが俺に抱きついた。
「馬鹿、翔の馬鹿! 心配したのよ、本当に心配したのよ!」
「ごめん」
「何も言わずに出て行くから、私、心配したのよ、本当に……」
「ごめん」
「島の噴火の音だって聞こえたんだから、翔がそれに巻き込まれて死んじゃったらどうしようって、私、どうしようって……」
ノゾは俺のことを本気で心配してくれたのだ。俺に抱きついたまま、小さな肩を震わせて泣いた。
「ごめん」
他に言うべき言葉が見つからなかった。
だから俺は、言葉の代わりにノゾをぎゅっと抱きしめた。ぎゅっとぎゅっと抱きしめた。ピーコが後ろでひゅうと口笛を吹いてみせたがそれも無視した。後からさんざんからかわれるのだろうけど、そんなことどうでもよかった。
今はただ、こうして抱きしめていたい。今はただ、こうして大切な人の存在を感じていたかった。
ヒナちゃんはケイタさんに連れられて正博さんのもとへと向かった。昌子姉さんはホテルの人たちと一緒にいるようで、この場にはいなかった。今この場にいるのは、俺とピーコ、ノゾとメグの四人。島に向かう道中を共にした四人であった。
俺は三人に別れてから今までの説明をした。老人を説得するようにイブに頼んだこと。イブは島に残ってどうなったかわからないことを話した。
「……イブちゃん、きっと生きてるよ」
ノゾはそう言った。
「だって、みんなに死ぬなって、生きろって言ったんでしょ? そんな張本人が死ぬわけないよ」
俺もそう思いたい。
最後のイブの姿が思い出される。朗々と宣言したイブの姿。
『……島は滅びても、島の心は滅びない。今まで生きた地とこれから生きる地、その地は違えど、その血は同じ。行け、私の子らよ。生きよ、私の子らよ』
――あれはあの地に伝わる本当の人魚伝説の主が乗り移ったのではないだろうか。
沖縄にはユタ信仰が伝わる。祖先の魂をその身に宿すという巫女を信じるものだ。ならば、イブはその身に古き皆見月島の人魚を宿したのではないか。
伝説の人魚が存在していたなら、イブと似た存在がまだこの世界にいるということだ。日本に伝わる八尾比丘尼の伝説を思い出す。人魚の肉を食べた尼が八百年生き続けたという伝説。世界各地にも人魚の伝承はある。もしかしたら……人魚は実在しているのかもしれない。ふとそんなことを思ってしまう。
それを説明するのに、科学だとかそんなものは一切そこに必要ない。信じる想いがあればそれでいいと、俺は思う。イブの仲間がいればそれでいい、と俺は思う――いや違う。イブは人間を仲間だと言ったのだ。そんなものいなくたって、彼女は生き続けるだろう。人間を見守って生き続けるだろう。
南月島の人魚はいま、孤独から解放されたのだった。
「しかし……人魚が実在してたなんてね」
メグがぼそっと呟く。
俺はそれを否定するつもりはなかった。イブがどういった存在なのかは話さない。話す必要もない気がしたから。彼女は人間に造られた存在ではなく、人間と同じ存在のように扱ってほしいと願っているだろうから。
「マクシーマ監督も南月島を訪れて『人魚の涙』を作ろうと思ったって言うけど、人魚を見たのかもしれないわね」
メグは、すごい体験をした、と喜んでみせた。でもきっと、彼女も誰かにこのことを話すつもりはないだろう。メグにとってもイブはもう仲間なのだ。そのことを誰かに話して、面白おかしく語ることはない。メグの性格もまた、この短い旅行の間に理解できていた。
そう、これは旅先でのお話。いくつもの出逢いがあって、いくつもの笑いがあった。
でも、これは旅先でのお話。いくつもの出逢いの後には、必ず別れが訪れる。
「そうや、人魚の涙や」
ピーコがメグの肩を掴んで、言う。
「なによ、ピーコ?」
それをうっとうしがるでもなく、メグはピーコの顔を見た。その視線には熱がこもっていて、この二人の仲が進展していたことに俺は気づく。俺とノゾが二人きりの時間を過ごしていた間、ピーコとメグも二人だけだったのだ。
ケイタさんが消えた事件。謎の地下通路でみんなとはぐれた一件。人魚という未知の生物との遭遇。そして島の噴火の大事件。事件に告ぐ事件の連続だった。その間に二人の仲が進展していたとしても俺は何ら疑問を抱かない。
「……あの、ほら」
ピーコはメグの視線から逃れるように言った。照れてるピーコはどこか新鮮な感じがした。
「ほら……人魚のトランプあったやん、まだまだ時間あるし、こりゃお前、大富豪しかないやろ」
「あんた、また? 飽きない人ね……」
メグは、大げさに肩をすくめてみせた。
――どうやら、俺たちの別れはまだ先のことであるらしかった。
ちょうど、俺たちの席にヒナちゃんやケイタさんも戻ってきた。林昌さんや正博さん、昌子姉さんもその輪に加わる。一同でトランプを始める。大人も子供も入り混じってトランプをする。
みんな笑っていた。
ピーコは自信満々に笑っていた。メグは嫌そうな顔をしていたが、まんざらでもなさそうだった。ノゾは俺の隣で嬉しそうに笑っていた。ケイタさんは冷静に手札を分析しながら、不敵に笑ってみせた。ヒナちゃんは正博さんにルール説明をしながら笑っていた。林昌さんはその膝に昌一を乗せて、昌子姉さんと一緒に手札を見て相談しながら、二人笑い合っていた。
ノゾが俺の手をつつく。こっそり渡されたのはジョーカー。絵札の人魚は――綺麗な顔で笑っていた。
「それじゃ、ゲームスタートッ!」
メグの声をきっかけに、熱い闘いは幕をきられた。
相変わらず強すぎるピーコをどうやって負かすか悩んでいたが、どうってことなかった。ケイタさんが強すぎた。それ以外に何も言う必要はない。
俺たちは災難にあった後だと言うのに笑い合った。観光客が笑っているのは不謹慎かもしれない。だけど、島に住む者も一緒になって笑っているのだ。不謹慎だって構うものか。
俺たちは帰りの道中をめいっぱい楽しんだ。めいっぱい、めいっぱい楽しんだ。別れが訪れるそのときまで――
*
鹿児島空港。
一同はそれぞれの空路の確保にいそしんだ。俺とピーコは大阪へ、ノゾとメグは長野へ。
南月島の住人は沖縄本島の施設にしばらくお世話になるらしい。そこで親類のもとへ帰るなど、新たな生活場所を探すのだ。林昌さんたちは那覇のじいちゃんの住んでいた家に住むことになるらしい。ヒナちゃんと正博さんは石垣島の親戚のもと――ケイタさんの両親の住む家へと移り住むとのことだった。
沖縄へと移動する人々は一足先に出発することになっている。
「ヒナちゃん、必ずまた遊びに行くから」
「みんな、約束やっし? ヒナは友達ね?」
「友達に決まっとるやん、ぜったい、また行くで!」
みんな、口々に別れを告げていた。
ヒナちゃんは俺たちと名残を惜しむと、ケイタさんのもとへと向かった。
「ケイタにーにー」
「ん?」
「……ごめん。携帯電話、部屋にあった……」
「ははは、比奈はすぐに物を無くすんだから。そんなんじゃ駄目だよ。誰もお嫁にもらってくれなくなっちゃう」
「え、そうなの?」
「さあ、世間一般では大体そうじゃないかな? 少なくともそんな人はお嫁にもらわないよ」
「じゃあ、がんばる。ケイタにーにー、新しい携帯電話買ったらまた教えてね」
ケイタさんは軽快に笑っていたが、俺は二人のやり取りを見て何となくわかった。
「いやあ、青春だね」
行きのフェリーでのケイタさんの口調を真似してみせる。ケイタさんは不思議そうな顔をしてみせた。
俺はそんなケイタさんを見てノゾと笑い合った。
「ヒナちゃん、また会おう」
俺たちは自宅の番号を教えあった。誰か一人でも全員の連絡先を把握すればまた会うことができる。こうすれば、またいつか、必ず会うことができる。
ヒナちゃんは目尻に涙をにじませていたが、俺たちの番号をメモした紙を手にすると嬉しそうに笑ってこう言った。
「またね!」
こうして、沖縄への便は飛び立っていった。
後に残されたのは俺とピーコ、ノゾとメグ、ケイタさんだった。
「しかし……本当にぎりぎりだったね」
ケイタさんはそう呟いた。
南月島は空港に到着して得た情報によると、火山の噴火によって島はとても人が住める状態ではなくなっているとのことだった。運が悪いことに戦時中の不発弾があったらしく、それに引火して島は半分沈んでしまったような状態であるらしい。もう二度と、人が住むことはないだろう。
間一髪だったと言える。ニュースでは政府の迅速な対応を褒め称える内容で溢れていた。そして島に訪れていたアメリカ在住の地質調査学者、大城慶太に最大の賛辞を与えていた。俺の名前は当然ながらない。だけどそれでいい。みんなが助かった、誰一人の被害も出なかったのだから、それでいいのだ。
ケイタさんは今日の便でアメリカに帰るとのことだった。色々な手続きで忙しいのだそうだ。
「じゃあ、僕もそろそろ……」
ケイタさんは時計を気にしながら、言った。
「ケイタさん、またね」
メグが言う。
「ケイタさん、色々とありがとうでした」
ノゾが言う。
「ケイタさん、次こそ大富豪の座は俺のもんやで」
ピーコが言う。
「よく言うよ。ピーコ君じゃ僕には勝てない。何回やっても、何百回やっても同じだよ」
「な、なんやて!? ぜーったい、次会うまでに特訓して勝つからな!」
ピーコがそう言うと、一同は笑いに包まれた。
ケイタさんは心から名残惜しそうな様子でその場を後にした。
ふと廃墟で拾った手帳のことを思い出す。色々なことがありすぎて、すっかり返すのを忘れていた。俺は手帳を素早く探すと、ケイタさんの元へと走り寄った。
「ケイタさん、これ……」
「ああ、これは! 無くしたとばっかり思ってたよ」
「廃墟に落ちていたのを見つけたんだ」
「そうか……これには僕のスケジュールがぎっしり詰め込まれてるんだよ。無くしたらまずいところだった。本当にありがとう」
「いえ、それよりもいくつか気になってることがあるんだ――」
俺のそんな言葉をケイタさんは遮った。
「疑問は疑問のまま取っておいて欲しい。人魚のことにしても……僕のことにしても」
そう言ってケイタさんはにっこり笑ってみせた。
「たとえどうであれ、僕らが友達であることには変わりない、そうだろう?」
ケイタさんの言うとおりだった。
俺は全ての疑問を捨て去ることにした。全ての謎はあの島と共に沈んだのだ。それでいい。
「イブは……」
ケイタさんは俺に背を向けて言った。
「イブは彼女に似ていたんだ。僕の亡くなった彼女に」
ケイタさんは振り返ると、笑ってみせた。
「僕もいつか、立ち直るよ。来年は石垣島の僕の実家で会おう。笑顔で会おう」
俺もケイタさんに笑顔を返した。
ケイタさんは、国際線の方へと歩いて行った。国際線は国内線と離れているのだ。ゆっくりと遠ざかるその背を見て、時間を思い出す。ノゾとメグもそろそろ長野へと出発する時間だった。
三人のいる場所に向かうと、別れの雰囲気を悟ったのか、みんな無言だった。
寂しかった。すごく寂しかった。何を、どんな感じで切り出せばいいのかわからなかった。
「ノゾ、メグ……」
二人は唇を噛み締めて、黙っている。
普段はお調子者のピーコでさえ黙っていた。うつむいていてその表情は読み取れなかったが、ピーコの気持ちはじゅうぶんに読み取ることができた。俺もつられてうつむく。地面が目に入る。
――無言。
島での様々な思い出が頭に浮かぶ。みんなで遊んだ海、みんなで釣りをした入江、どきどきしながら探検した廃病院。今ではどれもが楽しい思い出であった。足元を見つめていると、自分の胸元が視界に入る。
ちゅら玉のネックレス。ノゾがくれた、お揃いのネックレス。
そうだ、最後に黙ってちゃいけない。最後なのだから、気の利いたことを言ってやらなければいけない。
「あのさ」
「あのな」
俺とピーコが同時に口を開き、同時に言葉を失った。
唇に押し付けられる感触は――柔らかなノゾの唇だった。隣ではピーコも同じ状況にいるらしい。一方的にキスをすると、ノゾとメグは笑い始めた。
「あっはっは! サービスサービス!」
「くすくす、翔ったら、変な顔しちゃってる」
大笑いをする二人に文句を言おうとした瞬間、二人は走り出した。
「出発だから、またね!」
「忘れんなよ、あたしらのこと! 連絡くれないと怒るわよ!」
その目元には涙が浮かんでいた。二人は別れの寂しさを消そうと明るく振舞っていたのだ。そして、恥ずかしさを押し殺して、精一杯その気持ちを伝えたのだ。
だから、俺は叫んだ。
だから、俺は約束した。
「約束だ、必ず、いつの日かまた会おう!」
俺の声がその耳に届いたのか二人はにっこりと微笑んで手を振ってみせた。
俺とピーコはいつまでも手を振り続けた。二人がいなくなっても、ずっと降り続けた。いつまでも、いつまでも。
先ほどまでニュースを流していたテレビ画面が、今夏放映中の映画の予告に切り替わる。
人魚の涙。その最大の見せ場のシーンが空港のテレビの大画面に映し出される。亜麻色の髪を持つ人魚シューヴァが孤島を訪れた人間の男と出会い、恋をする。
彼女は言った。人魚も人間も同じなのだと。
彼女は歌った。生きる者すべて等しいのだと。
そのバックに沖縄事変の曲が流れる。孤独を克服した人魚の歌、『人魚の涙』が。映画を見たときには気づかなかったが、今初めてあの映画のタイトルの意味に気づいた――彼女の涙は悲しくて流したものではなく、嬉しくて流したものなのだと。
――長い長いときを、
――これからもずっとふたりで、
――長い長いときを、
――これからも貴方とふたりで、
――そう願う私はひとりじゃないマーメイド。