第2話

 アニメオタクの女子高校生の友だちが、おしゃべり好きな幽霊。
 世の中には変な話もあるものである。事実はアニメよりも奇なりだか何だかわからないが、よく言ったものだと思う。先人は偉い。先人と言えば、ある意味でふわ子も先人であるのだけども、私たちは自然と打ち解けあった。
 当初は生意気なヤツだと思ったのだが話してみると案外良いヤツなのだ、これが。
 出だしがアニメのことだったのも幸いしているのかもしれないが、私たちは色んなことをしゃべった。毎日、毎日、とめどないことをしゃべり合った。
 ふわ子は魔法少女アンが好きでアニメの話題と言えばそればかりだったが、時折り、私の知らない話もしてくれた。
 ふわ子は物知りだった。死ぬ前は大学生であった彼女は、キャンパスライフのことや自炊生活をしていたことなどを話してくれた。
「あたし、掃除や洗濯とか一通りできるんだから。あんた、あたしのこと、ただの馬鹿だと思ってたでしょ?」
「バカじゃないの?」
 素直な気持ちを語ると、彼女は「バカはあんたよ」と私を小突いた――いや、正確には小突く振りをした。
 そう、彼女は私にふれることができないのだ。それだけではない。
 彼女は物理的な行動を取れない。たとえば、私の部屋にある椅子に座ることができないし、部屋の扉を開けることができない。
 椅子に座ろうとすれば床に埋没し、扉を開けようとすれば開けるまでもなく廊下に出てしまう。どうやら彼女はすべてをすり抜けてしまうらしかった。
 だから料理や洗濯などを一通りこなせると聞いても、いまひとつしっくり来なかった。

 *

 今日も学校でジャイちゃんとスネ子に虐められた。
 虐められると目頭が熱くなる。前まではこんなことなかったのに、このままではいつか泣いてしまうかもしれない。
 人前で涙は見せるな、は魔法少女アンの口癖。だから私は目頭が熱くなると、執拗につきまとってくるジャイちゃんを振りほどいて家まで逃げ帰らないといけなかった。
 胸が熱くなる。頭の中がごちゃごちゃしている。辛かった。こんな気持ち、久しぶりだった。絵を描くことに対する気持ち以外はずっと忘れたと思っていたから、私は戸惑った。どうすれば良いかわからなかったので、私は玄関の靴箱をとりあえず殴りつけてみた。痛かった。当然だった。
「今日はまたこっぴどくやられたもんだねえ」ついさっき私が入ってきた玄関から声が聞こえた。「ちょっとはやり返しなよ」
 ふわ子だった。ふわ子は玄関を開けずに、そこから顔だけを突き出していた。幽霊の特権だった。
 学校でも家でも、ふわ子は私の周りをふわふわしている。当然、虐めの現場も目にしている。
「ほっといてよ」
 私はそっぽを向いた。人前で涙は見せるな、自分で自分にそう言い聞かせた。
「辛いの?」
 私は答えなかった。答えたくなかった。
 壁をすり抜けて、ふわ子は私の周りをぐるぐるふわふわと飛んだ。無言の私を見て、ふわ子はふっと笑った。
「あたしのせい、かしらね」
「……え?」
「あんたさ、今までは虐められてても何も感じてなかったんでしょ?」
 ふわ子が私の前に現れ、初めての友達になった。故に私は人と触れ合うことの温かさを知った。だから――
「だから、あたしは自分が余計なことをしちゃったんじゃないかって思ったわけ」
 そんな気がする、とふわ子は呟くと、馴染みのメロディを口ずさんで壁の向こうへ消えて行った。
 人前で涙は見せるな、見せたら魔法の力はなくなっちゃう……、魔法少女アンの主題歌だった。
 私は誰もいない玄関でひとり泣いた。

 *

「バカガワさん、掃除当番でしょ?」
 今日は見たいアニメがあったから急いで帰ろうとしていたら、スネ子ちゃんに呼び止められた。横でジャイちゃんがにやにやしている。
「え、私は昨日だったけど……」
「あれー、うちらと交代してくれるんじゃなかったっけ? うちら、今日、塾なのよねえ」
「でも……」
「代わってくれるわね? うちら友達じゃん?」
 私は頷くしかなかった。今までも、そしてこれからも。
 ジャイちゃんとスネ子ちゃんに逆らうと、また便器に顔を突っ込まれたり、靴の中にミミズを入れられたりするかと思うと、足がすくんで何もできなかった。
 従来、掃除当番は二人組だけど、今日は私ひとりだ。今日はアニメを見れないどころか、絵を描く時間も少なくなっちゃう。そう考えると自然とため息が出た。飛べない豚はただの豚だと言うのなら、絵を描けない私はいったい何だと言うのだろう。
 私のため息を聞きつけて、ふわ子が言った。
「やられっぱなしで恥ずかしくないの、バカガワさん?」
 怒っているときのふわ子はいつもと違う。私のことをクラスメイトと同じように蔑称で呼ぶ。
「嫌なら抵抗しなきゃ、何も始まらないでしょうが。周りが変わってくれる、変えてくれるなんて思ってたら大間違いよ?」
 嫌なら抵抗しないといけない。嫌じゃないなら抵抗しないでいい。簡単な命題だ。
 昔の私なら、絵を描く時間が減るという消極的な“嫌”だっただろう。
 今の私は、ふわ子と出会い、人と話すことの喜びを知ってしまった。いじめられるのが嫌かと問われれば、間違いなく嫌だった。どこに出しても恥ずかしくない、完璧な“嫌”。
 ……だけど。
「だけど、私には勇気がない」
 そう呟いた私を見て、ふわ子は優しく微笑んだ。
 ふわふわ、ふわふわ。いつものように漂いながら、彼女はそっと包みこむように私に腕を回した。
 彼女に実体はないのだから、その手が私に触れることは、ない。それがひどく残念だった。
「ふわ子」
「ん?」
「触れられないけど、あったかいよ」
「そんなことないよ。幽霊だもん」
 ううん、と私は首を振る。
「あなたが生きていればよかったのに」
 この温かさはもう長らく忘れていたけど、きっと、まだ私がまともだった頃に、母さんがそっと回してくれた腕の温もりに似ていた。
 ふわ子は私の言葉を聞いて、哀しそうに微笑んだ。



 ふわ子は、自分の死については語ろうとしない。
 だれだってそうだろう。死ぬときのことは考えたくないし、死んだとしてもそんなこと思い出したくない。
 だから私は聞かない。ふわ子が自分で話すまでは聞く気はない。
「朝ご飯よ、夏子」
 母の声が階下から聞こえる。こうしていつもの一日が始まる。今日は絵を描く時間があればいいと思う。

 学校はいつも通りだった。
 いつものように退屈な授業を受け、私は問題児だと決めつけている先生に怒られ、いつものように苛められ……、いつもの一日を耐える。苛めの内容は思い出さないようにしている。日記にも書きたくないし、絵にも描きたくない。
「おーい、死んだ?」
 生きてる、まだ。
 残念なことに、まだ。
「ありゃりゃ、だめか。ハデにやられちゃってさあ。ちょっとはやり返せばいーじゃん。こんなになるまで、あんた、バカでしょ。バカよ、バカ。今改めてわかったわ。あんたはバカ、バカバカバカ。バカの中川さん。略してバカガワ、きゃっは! 笑えるんですけど!」
「うるさい」
「おっと、生きてたか。こりゃ失礼」
 いつものように白いワンピースに身を包んでいるふわ子は、舌をぺろりと出して、可愛らしげに微笑んでみせた。
 ふわふわと浮きながら。
 ふわふわ、ふわふわ。風に浮くでもなく、鳥のように飛んでいるでもなく、ふわふわしているとしか言いようのない、そんな、
「ふわふわ」
「へ?」
「あなた、ふわふわふわふわ、邪魔なのよ。私の何なの? さっさとどっか行ってよ。それとも何、イジメのつもり?」
 ふわ子はきゃはきゃはと笑った後、どこかへ消えていった。ふわふわ、ふわふわ、と。
 そんな気はなかったのに、消えてしまった。ふわふわ、ふわふわ、と。

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