序章・コリン視点1

 愛用のスポーツウォッチがけたたましくアラームを鳴らす。それをとめ、昨夜のうちからすでに準備していた洋服に袖を通した。
 ふと壁にかかったカレンダーを眺めた。暦の上では、2月1日。いよいよだった。
 宗教行事の無駄に多いここシンガポールにおいては、旧正月の日にちも毎年変わる。シンガポールに住む人々は皆それに一喜一憂し、祭りに繰り出すのを楽しみにしているものだ。この俺だとて例外ではない。
 だが、今年は違う。
 親友のエイドリアンが俺を“アメージング・レース・アジア”に誘った。
「一緒にアメージング・レース・アジアに出ないか。きっとテレビにも映るよ」
 ――事実にして、たった一文。
 俺はその短い誘いの言葉に、淡い期待を抱いた。
 レースに出れば、テレビに映る。そうすれば、もしかしたら生き別れた両親の目に留まるかもしれない。 馬鹿げていた。自分でもそんな、お伽話のようなことを心の底から信じているわけではない。それでもいいじゃないか。たまには、夢を見たって。
 俺は大きく伸びをすると、隣で夢の世界に旅立っているエイドリアンを大きく揺すった。
「エイドリアン、起きろ!」
 エイドリアンは、少し眠そうに意味をなさない声を発した。自分から誘っておいて、何だこいつは。
 エイドリアンは朝に弱く、起きるのに途方も無い労力を必要とすることも分かっていたが、俺は無理矢理にエイドリアンを揺さぶった。
「今日からレースだろ!」
「あっ!」
 再度、声をあげると、エイドリアンはベッドから飛び起きた。
「全く、お前が行きたいって言ってたレースなのに、忘れるってどういうことだよ……」
 本当は“俺が行きたい”レースだった。それをエイドリアンに言えないくらいには、俺にもプライドがあった。
 殊更に呆れ顔をしてみせることで、俺は胸のうちの想いをかき消す。
「ごめん……」
 かき消した、つもりではある。だけど、親友のこいつには全てお見通しなのかもしれない。エイドリアンはじっと俺の顔を見つめていた。
「まあ、まだ時間的には充分間に合うから、早めに家を出て、朝ごはんに屋台で中華粥でも食べような。シンガポールのメシが食えるのも、これから一ヶ月間おあずけになるだろうし」
「うん」
 誤魔化すように言うと、エイドリアンは笑顔で頷いた。
 着替えを始めるエイドリアンの傍らで俺は、スポーツウォッチとペンダントをつけた。高校時代の友からもらったスポーツウォッチと……俺と両親を結ぶただ一つの接点であるペンダント。
 なぜだか無性に寂しくなり、頬を暖かい雫が伝った。それをエイドリアンに見られないよう、俺は慌ててそっぽを向いた。

 そのあと短い会話を交わして、俺たちは家を出た。
 荷物は少ない。レースに必要なものを最低限しか詰めていないボストンバッグが一つだけだった。エイドリアンも似たようなもんだ。
 エイドリアンはひょいひょいと群集を交わしながら、歩いていた。俺はエイドリアンの短く刈られた頭を見失わないようについていく。辿り着いたのは行きつけの屋台だった。
「おーい、アニキ!」
 親しげにエイドリアンが声をかけると、中にいたテレンスが顔をあげた。
「おっ、エイドリアン!」
「アニキ、いつもの二つ!」
 言いながら、エイドリアンは腰を下ろした。俺もそれに倣う。
 エイドリアンと俺の好みは大体にして合致しており、それを見越していつもエイドリアンは俺の分まで注文してくれる。たまに、エイドリアンが好きなものを俺が嫌いだったり、その逆もあったりするが、長い付き合いの中でオレたちはそれを理解し合っていた。
 俺たちが腰を下ろしたを見て、テレンスは「了解!」と笑顔を見せる。
 中華粥の香ばしい匂いが鼻をつく。しばらくして、盛りつけられた丼が目の前に差し出された。
 中華粥のザーサイ多め。俺とエイドリアンの“いつもの”だ。
「ありがとう、アニキ」
「礼は後にして早く食え! 冷めちまうぞ」
 礼を言うエイドリアンに、アニキは仕草と声で促した。
 エイドリアンは嬉しそうにレンゲを手にすると、それを一気に口の中に放り込み、幸せそうな表情を浮かべる。
 それにしても、こいつの「アニキ」という呼び方には、親しみがこもっている。俺はとてもじゃないが、恥ずかしくてアニキなど呼べたものじゃない。だけど、エイドリアンは何の迷いも屈託も無くアニキと呼んでしまう。
 ある意味で馴れ馴れしいと捉えられるかもしれないが、それがエイドリアンの良いところでもあった。孤児の俺を受け入れてくれたエイドリアンには、無限の優しさがあった。
 エイドリアンが肘で脇腹をこづき、早く食べろと催促してきたので俺も中華粥を口に放った。
 ザーサイは個性の強い漬物である。テレンスの作った中華粥の上には、薄切りになったザーサイがたくさん盛られていた。薄切りにして塩抜きをしたものである。この塩の抜き加減がこの屋台は絶妙なのだ。抜き過ぎると味がぼけてしまう。しっかりと辛みを残し、味が濃い。これが美味いのである。
 バイトの身であっても、アニキの腕は天下一だった。
「アニキ、顔の傷……」
 先に食べ終わったエイドリアンが改めてテレンスの顔を見たときに、そこに傷があることに気づいた。言われてみれば、ちょっといかついテレンスの顔には確かに傷があった。
「ああ、チャリンコこいでるときにちょっと事故ったんだ」
 テレンスは間髪を入れずに応じる。どこか不自然だと咄嗟に思った。だが、あえてそれを言うほど俺も野暮ではない。
「そうなんだ……」
 エイドリアンも少し気になっていたようだったが、それ以上は言及しよいとしなかった。
 俺が食べ終わったのを確認すると、エイドリアンは席を立った。
「アニキ、美味しかったよ!」
 エイドリアンが俺の分もまとめて会計を置く。親愛なるアニキのために、手間をかけさせないようにという配慮であって決して奢りではない。
 覚えるまでも無くここの店の値段は知っているので後から支払うことにして、俺も「ごちそうさま!」と少々、威勢良く声をかけた。
「おう、どうも!」
 応じる声も元気良いが、それが逆に少し気にかかった。
 店を出て、エイドリアンは呟く。
「絶対、変だよ」
 もちろん、俺もそれは考えていた。
「アニキの怪我。あれ、殴られたような痕だったよ」
 人には何かを隠したいときもある。どんな親しい人にも言いたくないこともある。エイドリアンは悪気はないのだが、少しばかり好奇心が強すぎる。
「エイドリアン」
 俺は短く発した。
「ごめん。調子に乗りすぎたよ……」
 エイドリアンは反省し、ちょっと表情を暗くした。エイドリアンがテレンスを心配しているのはよくわかる。こいつには本当に悪気がないんだ。
「さあ、エイドリアン。集合場所へ急ごう。僕たちは、レースに参加するんだ」
 あえて、「僕」と言った。エイドリアンは中流家庭の三人兄弟の末っ子だ。
 それに対して俺はスラム育ち。育ちの悪さは隠しきれたものじゃあないが、それでも俺はエイドリアンと一緒に暮らしているうちに感化されてきていた。今ではそれなりに礼儀も身についたつもりではある。
「楽しみだなあ! 僕は色んな場所を見て回りたいんだ。日本ならなおさらいい!」
 エイドリアンは拳を握り、熱弁した。 日本が好きなエイドリアンは、日本式食堂のコックになるくらい、本当に、それこそ文字通りに心の底から日本が好きだった。
 エイドリアンの好きな、日本――。
 俺は日本をあまりよく知らないが、好みの合うエイドリアンが好きなのだから、きっと俺にも日本は合うに違いなかった。

 ――日本に行きたい。
 俺たちは他愛ない、それでもささやかな夢や大きな期待に胸を膨らませながら、集合場所であるクレタアヤ広場に向かった。クレタアヤ広場は旧正月の祭りに備え、様々なブースが建てられている最中だった。
 俺たちの参加するレースの出発は、同時に旧正月の前座も兼ねている。俺は、今回参加することの叶わない祭りの片鱗をわずかながら味わえた気がした。
 広場の一画に、レースのことを書いたのぼりが上がっていた。そこには受付スタッフが座っている。
 俺とエイドリアンは簡単な手続きを済ませると、屋根だけの簡易テントに通された。
 中にはすでに一組のペアが居る。がっちりした体躯の長身の男が二人――ひとりはスキンヘッドでひとりは短髪。スキンヘッドは頭部からして威圧感を放っている。隣の男は、体格こそ似ているものの優しげなハンサムガイだった。
 俺はそこまで観察して、あと一人いたことに気づく。スキンヘッドの膝に、ちょこんと女の子が座っていたのだ。年は十五か、赤毛の可愛い少女だった。
 スキンヘッドの男とはあまりに違いすぎて、それこそ体のでかい男の膝に座っていたのでうっかり見落としてしまった。
 俺たちに気づいた三人はこちらに目をやり、「こんにちは!」とハンサムガイ、「よう!」とスキンヘッド、「はじめまして!」と赤毛の少女と、息ぴったりに挨拶をしてくる。
「はじめまして! エイドリアン・ヤップです」
「コリン・ロウです」
 俺たちも負けてはいられない。目一杯おおきな声で自己紹介した。元気さで負けていては、レースになんて挑めっこない。
 俺たちが名乗ると、スキンヘッドの男が言った。
「俺はロヴィルソン・フェルナンデス。こっちの野郎はマーク・ネルソン」
 スキンヘッドに紹介されたハンサムガイは微笑むと、手を軽くあげた。
「私はロジータ・フェルナンデス。ロヴィルソンお兄ちゃんの妹です」
 ロヴィルソンに紹介される前に少女は自らの名を告げた。
「ロジータはレーサーじゃないけど、レースが始まるまで特別にここにいていいことになってるんだ」
 隣に座っていたマークが補足する。
「とにかく、よろしくなエイドリアン、よろしくなコリン!」
 ロヴィルソンは笑顔で挨拶した。膝に座ったロジータも、隣のマークも微笑んだ。
 何とも気の好い三人である。ロヴィルソンの声に、俺たちは笑顔でうなずいた。

 そのときだった。一台の車が向かってくるのが見え、やがて広場に停まった。ピカピカに磨き上げられた高級車だ。
 名前は何だっけ。俺はそういったことに疎い。マロニー? バトロワ? ……なんか違う気がする。
 ひとり悩んでいると、高級車から若いカップルが現れた。女性はポニーテールで、男性はスキンヘッド――今日はスキンヘッドに縁がありやがる。そう思って、ロヴィルソンの方を見やるとロジータと目が合った。
 ロジータは緑色の瞳を悪戯っぽく輝かせるとニッコリと微笑んだ。ロヴィルソンとは似ても似つかないなあと思う。何より瞳の色の違いは、二人の間に何らかの壁があることを示唆していた。
 この二人は兄妹なんだろうか――と考えかけ、やめた。他人の事情に首を突っ込んでも仕方ないし、シンガポール中を探せば俺のような孤児はたくさんいる。おおかたはその類さ。
 ひとりあれこれ思考していると、すでに手続きが終わったらしい。執事風の老人といっしょに身なりの良い二人はこちらへ歩いてきた。
「ありがとう、サカモト。もうよろしいですわ」
 カップルの女性の方が執事に声をかけた。気品ある口調だが、鼻にかけた感じは全くしない。
「かしこまりました。では私はこれで……キナーヨシ様、ブレット様、幸運を祈っておりますぞ」
 執事――サカモトはカップルに深々とお辞儀する。
「ああ、ありがとう」
「ええ」
 ブレットと呼ばれた男性と、キナーヨシという女性はそれに軽く応じると、こちらへ歩いてきた。高級車は去っていく。
「どうしたんだい?」
 興味深そうに観察しているとブレットが尋ねた。
 俺に、じゃない。隣でアホみたいにポカンと口を開けているエイドリアンにだった。
「あの……ロワって……超高級車ですよね……それに乗って来るって……」
 エイドリアンの声は少し震えていた。中流階級のこいつには、その超高級車の凄さがわかるんだろうが、俺には全くだった。
 スラム育ちの俺にとっては、エイドリアンの一族も、ドバイの大富豪みたいなもんだ。今さら高級車のひとつくらいでは驚かない。せいぜい、俺が感じたのは『ああ、ロワって名前か』という程度のもんである。
 ――あまりに、次元が違いすぎた。
「ああ……実は僕はマニー自動車のインドネシア支社の社長の息子なんだ。ここにいるキナーは僕の許嫁で、丸岡百貨店のインドネシア支社の社長の娘だよ」
 ブレットが説明すると、エイドリアンは驚嘆の声をあげた。
 ……とりあえず、俺も横で驚いた振りをしといた。場の空気を崩したくなかったのと、スラム育ちなのをあまり人に知られたくなかった。
 あれこれ頭の中で考えていたが、二人が大会社の社長御曹司と令嬢だということはとにかくわかった。
「でも、僕たちのことを金持ちだとか、社長の子供とかいう色眼鏡で見ないでほしいな。僕たちだって君たちと同じ人間なんだから。僕の名前はブレット・マニー、キナーの本名はキナーヨシ・マルオカ。だけど、彼女のことはキナーって呼んであげて」
 ――そして、この二人は悪いヤツじゃあないってことも、俺は直感的に悟った。
 ブレットとキナーがそうやって自己紹介している後ろから、四人こちらへ向かってくるのが見えた。またもや、新キャラ登場である。
 皆、黒人である。そのため、四人はグループかと思ったが、ここはレースの待合所だ。案の定、近づくにつれ、二人ずつ別々に移動しているとわかった。
 女同士のペアと、男女のペア。最初にこちらに気づいたのは女同士のペアだった。
 女性ペアの二人は共に浅黒い肌(黒人だから当たり前か)に黒髪をしていた。
 一人は長い髪を後ろでシンプルにまとめていて、もう一人は長いストレートヘアだった。
「初めまして。私はアン・タン。こっちはダイアン・ダグラス。私のことはアンナって呼んでね。よろしく」
 ストレートヘアの女性はアンナと名乗った。
 ふとした違和感を抱く。アンナの話し方、仕草になぜか親近感を覚えたのだ。一瞬、知り合いかと記憶の糸を辿る。それこそ、スラム時代の記憶まで潜ってみたが思い出せなかった。
 そもそも、そんなに昔ではないような気がする。もっと新しい記憶のような――
「よろしく!」
 エイドリアンが元気良く挨拶した。俺も思考を中断して、エイドリアンに倣った。
 すると、アンナの横にいたダイアンがずいっと身を乗り出す。
「一つ言っておくけど」とダイアン。「一位は私たちのものだから、覚悟しといて!」
 なんと威勢のいい言葉。
 なんだか負けていられない気がした。
「いや、僕たちも負けないからな」
 ダイアンの自信に満ち溢れた顔を真似して言ってみる。
 ダイアンはその反応を見て一瞬きょとんとしたが、すぐに楽しそうな表情で何か発しようと口を開く――が、邪魔が入った。
「おっと、私たちも負けやしないよっ!」
 ダイアンとアンナの背後にいた黒人カップルの片割れ、女性が叫んだのだ。四十代という年齢に似合わない威勢の良さだった。
 女性はカールのかかった長い髪をしていて、その隣にいる男性はスキンヘッドで良い体格をしていた。
「私はトリニダード・リード。みんなからは『テリー』って呼ばれてるから、そう呼んでおくれ。で、ここにいるのが、私の旦那兼アシスタントのヘンリーだよ」
「アシスタント?!」
 思わず声をあげてしまった。隣でエイドリアンが見事にハモっていた。
 アシスタントと言うと、普通の人にはまずつかないから、びっくりしてしまった。
「ああ。私は『Tita Terri & Tito Henry』っていう服飾ブランドをやってるんだ。自分たちで立ち上げたんだけど、今は知らない人はいないくらいのブランドになってね……毎日忙しいけど楽しい日々を送ってるよ」
 これは俺も名前だけは聞いたことがあった。有名ブランドだ。
「えっ、TTTH?!」
 今まで蚊帳の外にいたブレットが驚いたように飛び上がった。
「そうだよ。私はそこの創立者でデザイナーさ」
「TTTH、キター!」
 ブレットが突然、裏声で叫んだ。そしてそのままぴょんぴょんと跳びはねる。
 これは何というか……正直気持ち悪い。
「ブレット、お止めなさい!」
 キナーが叱咤する。興奮していたブレットは渋々と椅子に座り直した。
「全く……ブレットときたら、まだアキバ系を卒業できませんのね。開いた口が塞がらないこと、この上ありませんわ」
 キナーは“アキバ系”と口にした。それは日本を中心としたサブカルチャーで、シンガポールにも密かなブームを巻き起こしている。ある人はマニアと呼び、ある人はヲタクと呼ぶ――いわゆる、あまり世間的には受け入れられにくい側面を持つ文化であった。
 怒るキナーを見て、不思議と笑みがこぼれた。他の皆も笑っていた。
 キナーとブレットのやりとりを眺めていると、エイドリアンが何かに気づいた。
 その視線の先を追うと、若い女が何人かいる。このスケベめ、と冷やかしてやろうと思ったが、ここにいる女がただの一般人なわけがない。おそらくはレース参加者だろう。いずれ、雌雄を決する間柄になるわけだ。
 エイドリアンに倣って俺も女性を観察した。人数は四人。おそらく、二人で一組のチームがふたつ。ひとりはストレートの黒髪で……と深く特徴を覚えようとしてやめた。こういった面倒なことはぜんぶエイドリアンに任せておこう。適材適所、俺には俺の役割がきっとある。
 俺は自然と目に入ってきた情報を、ちょびっとだけ頭の隅にとどめておくことにした。
「はじめまして。私、ヴァネッサ・チョンって言うの。で、こっちは私の妹のパメラ。よろしくね、みんな」
 さっそく一人が口を開いた。黒髪の二人ペアのひとりだ。二人とも揃ってきれいな女性だと思っていたら、なんてことはない。姉妹だったわけだ。
 俺は一連のやりとりをぼうっと眺めた。ロヴィルソンが顔を赤らめている。このシャイめ。
 ヴァネッサに促されて、妹のパメラが「みんな、よろしく!」と挨拶する。そこに割って入ったのが、残りの一チームだった。
「オーレリアのこともよろしくね!」
 威勢良く入ってきたのはピンクのヘアバンドをした女の子だ。髪はこげ茶のストレートヘアをしていた。
「オーレリアの名前は、オーレリア・シェナって言うの。で、こっちは一緒に暮らしてるお友達のソフィー・テン。ソフィーとも仲良くしてあげてね、ちょっとツンデレさんだけど」
 “オーレリア”とはてっきり、隣のボブヘアの子の名前を紹介しているものだと思っていたら違っていたらしい。ピンクのヘアバンドの女の子自身がオーレリアだった。どうやら、顔に似て性格も幼いのか自分のことを名前で呼んでいるのだった。
 俺はほほえましくて、つい顔が緩みそうになるのをこらえた。そこに、隣に居た子が叫んだ。ソフィーだ。
「オーレリア! 私のことツンデレって呼ばないでって何回言ったらわかるの?! このヘッポコ社長令嬢!」
 ツンデレと言われたことが恥ずかしいのか、皆が一連のやりとりを見て笑っているのが恥ずかしいのか、顔は朱に染まっている。
「はあ……これでも創業百年のシェナ社の三代目の娘だなんて……本当に信じられないわ……」
 恥ずかしさを消そうとしてか、半ばオーバーにソフィーは言ってみせる。
「あの、シェナ社ってシロップとか出してる、フランスの会社ですよね?」
 耳ざとく聞きつけたロジータが驚きの声をあげると、ソフィーはあっさりと首肯した。
「やっぱり!」
 見事に声が重なった。ロジータ、キナー、エイドリアンの声だ。
 あとの二人はともかくとして、エイドリアンが歓声をあげるのは想定の範囲だった。あいつはことあるごとにシェナ・シロップを使いやがる。あまりに使いすぎるもんだから、ついには俺の舌もそれしか受け付けなくなっちまった。まったくなんて悪どい代物なんだ、シェナ・シロップは!
 ……なにせ、あれはあまりに美味すぎる。
「オーレリアさん、お会いできて光栄ですわ! うちの百貨店の食料品コーナーでも、シェナ・シロップはとても人気ですのよ」
「私もお会いできて嬉しいです! あのシロップ、種類も多いしおいしいから好きなんです!」
 キナーとロジータが物凄い勢いでオーレリアに詰めかかる。あまりの剣幕に押されてか、オーレリアは照れくさそうに頷くばかりだった。
 それにしても、社長令嬢か。ここに着てから、普段お目にかかれない人種ばかり出会える。オーレリアが社長令嬢なら、その友達のソフィーもきっと金持ちなんだろうな。俺とは世界が違う人種だ。
 これだけの喧騒を起こしたソフィーがやけに静かだと思って見ると、ソフィーはただ一点を見つめているようだった。その目には涙がうっすらと滲んでいる。
 目線の先には、テリーがいた。『Tita Terri & Tito Henry』で有名な、あのテリーだ。この二人の間にも何かありそうだな……そう思ったが、詮索はやめにしておく。金持ちには金持ちの、きっと俺にはわからないほど深く、底の見えない悩みがあるんだろう。
 俺はそんな人様の悩みよりも――自分のことが知りたかった。どこからきて、どこに向かっているのか。先の見えない、吹雪の雪山を歩いているような俺に道を示してくれたのはエイドリアンだった。こいつがいなかったら、今の俺はなかったに違いない。
 隣で、俺と同様にソフィーとテリーのことを気にかけている様子の相棒を見て、俺はため息をこぼした。また、他人のいざこざに首を突っ込まなければいいんだが。
 しかし、エイドリアンはすぐにそっぽを向いた。どうやら、一歩下がった場所から眺めていた俺の想いが伝わったらしい。日本で言うところの“心眼”というやつだ。
 ……だいぶ誤った解釈だと思うが。
 四人が早々にエイドリアンのいる輪に加わると、間髪を入れずまた二人組が現れた。
 このレースは、いよいよもって難関を極めそうだと思った。人数が増えれば増えるほど、トップは狙いにくくなる。周囲は和気藹々としたムードではあるが、よくよく考えればみんなライバルなのだ。
 もしかしたら、エイドリアンはそのことに気がついているのかもしれない。若い女性二人を観察していた。二人とも二十歳ほどで、ポニーテールにロングヘアだ。かたや白いリボン、かたや赤いリボンと二人ともアクセントを入れている。
 と、エイドリアンの鼻の下が少し伸びた。
 どうせ、白いリボンの子がかわいいとかそんなことを思っているに違いない。エイドリアンめ――と思った瞬間だった。エイドリアンの肩がわずかに震える。
 エイドリアンが何に反応したかはすぐに解った。薄暗い路地裏を駆け抜けて生きてきた俺には、エイドリアンよりももっと深く理解した。
 エイドリアンを見て、次に俺を見た。白いリボンの女の、その目だ。今はさわやかな笑顔をみんなに向けているが、間違いなく今の一瞬は違っていた。あの視線は、スラムでよく見た類の、冷たい目。裏社会を生きる者に共通する目。
「はじめまして! ウチの名前はポーラ・テイラー。よろしくね!」
 白リボンは、ポーラと名乗った。
 明るい声音だが、俺はどこかそれに作り物めいたものを感じていた。この目に近づいてはいけない。本能がそう伝えてくる。
 スラムで生きていく中で俺が身につけたものは、喧嘩の腕っぷしの強さでも、熱い根性でもない。危険かを避けるための勘だ。
「あ、ボクはナターシャ・モンクスって言います。よろしくお願いします!」
 ポニーテールの赤リボンは、ナターシャと明るく名乗った。これが今流行のボクっ子か。
 こちらからはさほど何も感じなかったが、ポーラとチームを組むような子だ。こちらももしかしたら、クセがあるかもしれない。
「なあ、コリンだったか、おまえ」
「ああ、うん。そうだよ。マークだっけ?」
 観察していると、同じく輪から一歩はずれて話を聞いていた体格のいい男が話しかけてきた。クールカットの髪をぼりぼりとかきながら、マークは難しそうな表情をしている。
「ああ、そうだ。すまんな。こうも数が多いとすぐに名前を覚えられなくてな……なあ」
 周囲を窺ってか、小声だった。
「あのポーラって女、ちょっとおかしいよな」
 どうやら、マークも表情と声音から察するに俺と同じようなことに気づいているらしい。
 しかし、俺ほど深くは考えていない様子ではあった。俺が気づいたのは育ちのせいであったが、マークはその冷静沈着な性格からそのことに気がついたようである。
 そう思ったので、「何か、ありそうな気がする」とだけ答えておいた。まだ、何があるのかはわからない。
 ポーラは何者なのだろうか。他の参加者とは目的が明らかに違うような気がする。
 胡散臭く、きな臭い。このレースは一体どこに向かうのだろうか。ふと、そんなことを考えた――またそのとき!
「オッス! オレ、エドウィン・ロー。よろしくな!」
 談笑していると、またまた新たなメンバーが来たようだ。レース会場。何名が来るのかわからないが、これは混戦が予想される。
 威勢の良い調子で自己紹介をしてきたのは、俺やエイドリアンより年下の男。やや細い目が特徴的だ。
「アタシはモニカ・ローってんだ。アタシのこともよろしくな!」
 その隣にいた女も気の強そうな様子で自己紹介する。髪は邪魔になり過ぎないように肩くらいのところでセミロングに揃えられていた。
 言葉遣いの行儀なさが、スラム育ちの俺には無性に懐かしく思えた。その郷愁に思わず、こちらからも挨拶をしようとすると――
「モニカさん、淑女たるもの、少々言葉遣いに気をつけた方がよろしくてよ」
 出た。口やかましいやつが。
「うっせーな、お嬢。初対面の人に向かってそれは失礼だろ?」
「失礼なのはあなたではなくて? わたくしはあなたのためを思って注意しただけですのよ。第一わたくしはお嬢などではありませんわ。キナーヨシ・マルオカという名前がありましてよ」
 キナーだった。
 モニカもあえて小馬鹿にしたように“お嬢”にアクセントをつけて言い返す。そして、それに対してさらにキナーが返す――この二人の今後の方向性が見えた気がした。
 俺は間に入ろうとしたが、モニカの隣にいたエドウィンが何か言おうとしているのに気づき、傍観を決め込むことにした。部外者が入り込んでもややこしくするだけだしな。
 さて、一体どういう風にこの二人の仲を取り保つのか。お手並み拝見としようか。
 そう思った瞬間だった。エドウィンがその一言を放ったのは。
「二人ともケンカすんなよ、このタンコブナスビ!」
 周囲の空気が冷たくなったように感じた。静寂。
「エドウィン、それを言うなら『オタンコナス』じゃないか?」
 この空気にいたたまれなくなったのか、ヘンリーが遅ればせながら突っ込む。
「だって、『タンコブナスビ』の方が響きがそれっぽいだろ?」
 唖然としている大衆を余所にエドウィンは続ける。
「ちょっと汚いたとえだけどよ、『ゲロ』と『ゲボ』だと『ゲボ』の方が響きがそれっぽいのと同じってワケ」
「ああ、わかったわ!」ヴァネッサだ。「今のでよくわかった!」
「だろ?」
 ヴァネッサはわかったわかった、と満面の笑みだった。しかし、周囲の人間はちんぷんかんぷんだという顔をしている。
 これはまずい。俺もわかってしまった側の人間だったのだが、同じ目で見られるのが嫌なので、何もわからないような顔をしようと努めた。
 そんな姑息な努力をがんばっていると、老人が少年と共に現れた。老人には覚えがある。キナーの執事のサカモトだ。少年は――
「クインシー!」
 エイドリアンが声をあげると、こちらへ駆け寄ってきてエイドリアンに嬉しそうな笑顔を見せた。
「一人で来たのか?」
 クインシーのほかにはサカモトの姿しかないことを確認し、俺は尋ねた。ここまでひとりで来たとは思えなかったからだ。
「うん! オレ、途中で迷いそうになったけど、あのじいちゃんがここまで連れて来てくれたんだ」
 きっと、俺とエイドリアンを見送りに来てくれたんだと思う。それにしても、クインシーがひとりでこうやって見送りに来れるくらい、成長したなんて。
 柄にもなく感動してしまって、「よかったな!」と心から喜んだ。
 その一部始終を見守りながら、エイドリアンはサカモトに礼を言いに行ったようだ。内容までは深くは聞こえなかったが、表情の様子からして世間一般の謝辞だろう。サカモトも優しげな表情を崩さなかった。
 サカモトとエイドリアンが話しているところに、女性がぶつかったのが見えた。
 セミロングの女性はだいぶ急いでいたのだろう。頬が赤く火照っている。
「あ、ごめんなさい!」
「うわ、ごめんなさい!」
 エイドリアンと女性の声が重なる。
 女性を見たエイドリアンの頬が見る見る赤く染まった。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫、です」
 またもや、二人の声が重なる。そして、「あっ」と黙り込む二人。
 そんな二人の様子を見て、サカモトが「大丈夫ですか」と気遣いを上乗せしたが、二人はそれに気づかなかった。なんか、微妙な空気が漂い――
「あー、コイツ真っ赤になってやがる!」
「あー、兄ちゃん真っ赤になってるー!」
 それを消したのは、エドウィンとクインシーの声だった。
 また真っ赤になる二人。ここはちょっと、フォローを入れておくべきだろう。そう。大人として。からかうのは後でエイドリアンとオレが二人のときでもいい。
 それが大人ってもんだ。
「こら、クインシー!」と言ったところに、モニカの声が重なった。モニカもまた、オレと同じ考えだったようで、エドウィンを制する。
 エドウィンは軽く舌打ちをし、クインシーも不服そうにぶつぶつと何事か呟く。あまりにしつこいので、ちょっと睨みつけると、渋々とオレの隣にやって来た。
「どうせ、後でからかうんだろう?」
 ひそひそと耳打ちをしてくるクインシーに、「するに決まってんだろ」と言うと、「レポよろしく」とのこと。それでこそ、オレたちの仲だぜ。クインシー。
 そんな麗しき愛情劇が繰り広げられているとは知らず、周囲は元の空気に戻っていた。
「姉さん、そろそろ自己紹介した方がいいんじゃないの?」
 先ほどエイドリアンにぶつかった女の、後を追いかけていた男が口を開いた。黒髪の姉弟であるらしい。
「うん、そうだね。っていうか、ごめんね、イチ君。私ったらホントに落ち着きが無いから……」
 薄々感づいていた。
 このタイミングで、この場所に息を切らして駆けてくる者がただの通行人のはずが無い。だとすれば、ペアであるはず。
 イチと呼ばれた若い男性も、このセミロングの女性も、レースの参加者だ。しかし、この二人の髪色と風貌は――
「はじめまして。私はサワカ・カワシマといいます。日本から来ました。で、こちらは弟のダイチです。よろしくお願いします!」
 想像通り、日本人だったサワカとダイチ(女はイチと呼んでいたがニックネームだろう)は軽く会釈をした。オレと、それからサワカの隣のエイドリアンに向かって。
 エイドリアンはまた頬を赤く染めた。これはもしかしたら、いよいよ、ホの字かもしれない。あまりに面白いネタを見つけたので、夜にでも問い詰めてやろうかと、内心ほくそ笑んだ。

「これで、レーサーは全員揃ったね」
 いきなり、そんなセリフが響いた。
 白リボンをつけたポーラだ。マークは怪訝そうに尋ねた。
「何で知ってるんだ?」
「スタッフさんがさっき教えてくれたの。このレースには10組のペアが出場するって」
 事も無げに言ってのけるポーラを見て、マークはその独特の雰囲気に気づいたようだ。
 俺の方に寄って来ると、マークは「あの女、ちょっとおかしくないか?」と小声で聞いてくる。何で俺に聞くんだよ。
「どのあたりが?」
「ああ。何ていうか、触ると火傷すると言うか、ナイフみたいに尖っているって言うか、どうもカタギの人間にない雰囲気を持っている気がする」
 あくまでも推測の話だった。
「俺もそれは感じていたが……」
 だからと言って、やるべきことはない。
「とにかく、レースの中でもあいつは強敵になりそうになるのは間違いないってこった。お互い、気をつけようぜ」
 マークはそう言うと、俺の肩をぽんと叩いた。
 ちょうど、そのときだった。
「おーい! エイドリアン、コリン!」
「クレム!」
 エイドリアンが声を張り上げ、俺もその姿を認めた。
 俺の高校時代の先輩だ。クレムの隣には、その親友のドニー先輩もいる。
「レースだから見送りに来たんだ。テオフィスト先生とニャロメも、後から来るってさ」
 クレム先輩は微笑んだ。
 ユリセス先生にニャロメか! 俺はつい嬉しくなって、小さくガッツポーズした。二人とも、俺の大切な人だ。
「ありがとうございます、先輩」
 俺はとにもかくにも、まずは時間を割いてレースの見送りに来てくれたクレム先輩に礼を述べた。
「礼はいいって。二年間一緒に過ごしてきたから、俺たちは兄弟みたいなもんだし、それに……」
 そのとき、クレム先輩を押しのけて、ドニー先輩が黄色い悲鳴とともに身を乗り出す。
「オーちゃん! オーちゃんだよね?!」
 ドニー先輩の興奮の対象は、オーレリアだった。
「うん、そうだけど……オーレリアのことをそう呼ぶってことは……キミ、月刊バーテンダーマガジン読んでるでしょ?!」
 オーレリアは相変わらず、一人称を自分の名前で呼びながら、ドニー先輩に向き合う。
 月刊バーテンダーマガジン、俺も聞いたことくらいはある。そこそこ、いや、通の間ではかなり有名な雑誌だったはずだ。それにオーレリアが載っていた?
「そうそう!」
 興奮冷めやらぬ様子でドニー先輩が言うと、オーレリアは「やった!」と喜びの声をあげてドニー先輩に抱きついた。
 ドニー先輩もたじたじになりながら、抱きつかれた以上は抱き返す。ほんと、このオーレリアっていう子は、子供っぽいところがあるな。何が「やった」のかさっぱりわからん。ドニー先輩もドニー先輩だぜ――などと考えていると、クレム先輩から「羨ましがってんじゃないぞ」と小突かれた。誰が!
「さて、いい加減、この寒い空気どうにかしないとな」
 そう言って、クレム先輩は歩き出す。ドニー先輩に向かって。
 と、同時にソフィーが動く。もちろん、オーレリアを止めるためだ。そして、オーレリアの肩を掴む。
「ドニー、今はそういう時間じゃないだろ! ……あっ!」
「オーレリア、やめなさい! ……あっ!」
 クレム先輩とソフィーは顔を合わせると、一瞬硬直した。
「お、お兄ちゃん……」
 ソフィーは力が抜けたようにオーレリアの肩から手を離した。
「何でこんなところにいんのよ。私のこと一人ぼっちにしたくせに、急に会いに来るなんて……いったい何がしたいの?」
「いや、別に……ただ、後輩がここに来てるから……」
「なら、別にいいけど」
 ぎこちないクレム先輩とソフィーの二人を見て、俺はおそるおそるドニー先輩に話しかける。ドニー先輩なら何か知っているだろうと思ったのだ。クレム先輩は、妹と何かあったのだろうか。
「訳、聞いてもいいですか?」
「うーん……」
 何か言いにくいことでもあるのかもしれない。無理に聞き出すのは良くなさそうだ。
「わかりました。無理やり聞いたりしませんから、安心してください」
「うん、ありがとう……」
 そこまで言って、ドニー先輩は唐突に思い出したかのように言った。
「あと、一個気がかりなことがあるんだ。アルのこと」
 あるいは、それは話を誤魔化しただけだったのかもしれない。
 しかしアルと聞いて、思わず視線が手元のスポーツウォッチにいく。これも、アルからもらったものだ。
「アルが、どうかしましたか?」
「うん、実は昨日……」
 ドニー先輩が口を開くと同時に、アルがこちらに向かっているのが見えた。ドニー先輩の向こうにアルが見える。どこか、おかしい。ドニー先輩はいったい、何が気がかりだと言うのだろう。先輩もその気配に気づき、振り返って表情を変えた。
「おい、アル……」
 俺は声をかけたが、アルは険悪そうな表情で通り過ぎていく。俺もドニー先輩も、まるで視界に入っていないようだった。もしかしたら、知っていて無視したのかもしれない。それほどまでに、今日のアルの様子は今までのそれと違っていた。
 アルがいよいよスタッフのいる席に辿り着こうというとき、パトカーのサイレンの音が響いた。俺たちの目前でパトカーは停車し、エイドリアンが俺の隣で驚きの声をあげる。
 警官たちは勢いよく飛び出すと、アルの居る方へと駆け出した。
「アラン・ウー、お前を暴行の容疑で逮捕する」
 驚いた。
 しかし、冤罪ではない様子だった。アルは静かに頷くと、パトカーの中へと連れ込まれた。アルは車内で何事か話している様子だったが、分厚い窓ガラスに遮られて内容までは聞き取れない。
 代わりに聴こえたのは、スタッフの申し訳なさそうな声だった。
「みなさん、残念ですが……ウーさんが逮捕されたのと、警察の指導があったので、レースは中止とさせていただきます。申し訳ございません」
 どうやら、別の警官がスタッフに声をかけ、レースの中止を呼びかけたらしい。いや、詳しくは知らないから、想像だ。もしかしたら、スタッフが自主的に中止を判断したのかもしれない。
「何だって!」
 エイドリアンが怒気をはらんだ声でスタッフに詰め寄る。
 こんなに怒っているエイドリアンを、俺は見たことがない。
「ふざけないでください! これってテレビに映るんでしたよね!? テレビに映ったら、どこかにいるコリンのお父さんやお母さんの目に留まると思って、僕たちは希望を抱いてレースに出たんですよ?! それをいきなり中止にするなんて、ふざけているにも程があります!!」
 ああ、そうか。
 エイドリアンはだから、怒っていたのだ。
「で、でも、警察の指導があったので……」
 スタッフが言い訳をする。やはり、さっきの会話は警官からの指導だったようだ。
「だから何なんですか!」
 エイドリアンはスタッフの胸倉を掴み、右手を振り上げる。
 ――もういい。
 俺はその手を強く握り締めた。エイドリアンが俺の手を振りほどこうとし、気づく。
「エイドリアン、もういい」
 エイドリアンがばつの悪そうな顔で、俺を見た。激昂したことが恥ずかしくなったのかもしれない。周囲の人々は驚きのあまり、固まってしまっている。ロジータなんて、泣きそうだった。ふだんのエイドリアンからは想像もつかない剣幕だから、無理もないと思う。
 でも、その怒りの要因は俺にある。
 エイドリアンは、俺をどうしてもテレビに出させたかったのだ。そうしたら、俺が両親の目にふれるかもしれないから。両親が俺のことを迎えに来てくれるかもしれないから。
 両親とは会いたい。だから、レースにも参加しようと思った。だが、事情が事情なのだ。それにレースに出たとして、百パーセント必ず両親に会える保証なんて、どこにもないのだ。当事者の俺は、エイドリアンと違って、かえって冷静だった。
 なにより、エイドリアンの気持ちが嬉しすぎたのかもしれない。
 俺の代わりに怒ってくれたことで、俺は冷静でいられた。エイドリアンの優しさが、俺の気持ちを穏やかにしていた。
「コリン……」
 怒りと悲しみが入り混じったような複雑な表情だった。
「もういい。もういいから」
 エイドリアンは何か言いたげだったが、すぐに恥ずかしそうに俯いた。
 俺はそっと掴んでいた手を離した。同時に、地面にぽつぽつと染みが生じる。エイドリアンの涙だった。
「でもさ……コリンのお父さんとお母さんが……見つけてくれるチャンス……なくなっちゃったじゃん……」
 そんな言葉、反則だ。チャンスなんて言われたら、余計に諦めきれなくなるじゃないか。考えるな、コリン。コリンお前はひとりで生きてきたじゃないか。いや、今はひとりなんかじゃない。ほらこうして、エイドリアンだって居る。
 それに冷静に考えるんだ。チャンスだったのか、本当に? テレビに出ただけでそんなに簡単に俺の父母が見つかるか? そんなことで見つかるくらいなら、もうとっくに見つかっているだろう。俺を、見つけに来るはずだろう。そうしないっていうことは、俺のことなんてどうでも良くなったか、もうこの世にいないっていうことになる。
 最後に浮かんだ推測に、何かずきりとこめかみが痛んだ。……この世に、いない。
「ダメだよ、そんな簡単に泣いちゃ」
「……サワカ?」
 泣きっぱなしのエイドリアンの頬を、サワカがハンカチで拭ったのだ。いや、ハンカチではなかった。赤いバンダナだった。
「何があったのかわかんないけど、ものすごくつらいことがあったのはわかるよ。でもね、そんな簡単に泣いちゃダメ。ね、わかるでしょ?」
 こういうときの、女性はすごいと思う。どんな優れた薬よりも、遥かに効能のある特効薬だ。
 しかし、サワカの台詞から考えるに、俺たちの話を聞いていたようには思えないので、遠めに見てエイドリアンが泣いていたから親切心でこちらへ来てくれただけというところだろう。しかしなんだ、何かいい雰囲気だな。
 そんなことを考えながら二人を眺めていたのだが、エイドリアンが何かに気づいた。その視線の先を追うと、四人こちらへ向かって来ている。
 さきほど、クレム先輩が言っていたことを思い出す――『レースだから見送りに来たんだ。テオフィスト先生とニャロメも、後から来るってさ』。テオフィスト先生ことユリセス、ニャロメことユージーン。この二人はまだわかる。一人はまったく知らないおばあさんだ。
 問題は残りのひとりだった。
「アニキ……どうして……」
 エイドリアンが疑問を口にする。
 さっきまで店に居たのだから、もっともだった。俺たちがここへ向かう前に腹ごしらえをしたときと同様、テレンスは顔に怪我を負っていた。嫌な予感が脳裏をよぎった。
「エイドリアン……許してくれ!」
 テレンスはエイドリアンの名前を呼ぶと駆け寄り、地面に手をつき、日本の文化であるところの“土下座”をした。
 警察に連行されていった、レースの主催者アルことアラン・ウー。そして、暴行を受けたような後のあるテレンス。点と点が結びつき、線になろうとしていた。エイドリアンも薄々感づいた様子だった。
 一筋縄ではいかない事情が、ある。俺は直感的にそう感じ取った。
 アニキことテレンスは、涙を溢していた。その頬の打撲痕が痛々しい。
「アニキ、何があったの? 一体……」
 エイドリアンが口を開いたとき、ユリセス先生の隣にいたおばあさんと目が合った。おばあさんは驚いたように目を見開き、俺の元へと詰め寄る。
「あなた、そのペンダント、どこで手にいれたんですか!?」
 一瞬、気圧され、しかし瞬時に俺は理解した。このおばあさんは、“知っている”。このチャンスを決して、逃してはならない。レースが開催されない今、ただひとつの成果であり、運命を切り開く鍵であるんだ。
 俺はつとめて平静を装うとした。心臓が飛び出しそうだった。慎重に言葉を選ぶ、なるべく相手に失礼のないように、けれども正確に。
「このペンダントは、僕の両親のものだと思います」
「思う、って……?」
「僕には、家族がいないんです」
 言った瞬間、周囲の空気が変わったような気がした。哀れむような、同情するような、そういう気まずい雰囲気だった。だがもうさすがに慣れた。
 だから、冷静になれた。そして気づいた。そういう空気に馴染まない人間がいることを。エイドリアンはわかる。もうすでに俺の出生を知っていて、俺が同情されるのを嫌がっていることも知っているから、今はもう、そういう眼で俺を見ない。
 だが、あいつはどうだ。ポーラとかいう女は。なぜか、微笑んでいた。妖艶あるいは冷たいと表現したらいいんだろうか。そういう、嫌な気分にさせる微笑だった。この場において、笑われたことに対してはむしろ一巡して腹が立たなかった。ただ、疑問だった。なんで、笑っていたんだ――。
 そうして、はっとする。
 おばあさんが俺の顔を見つめて、次の言葉を待っている。俺は慌てて、説明した。
「僕は、今から30年前の4月26日に起きた飛行機事故で、奇跡的に生き残りました。このペンダントは、当時推定生後10日の僕が、救出されたときに握り締めていたものなんだそうです。でも、ペンダントについての情報はこれしかありません。両親のものだというのも、あくまで推測です」
 説明的すぎるくらいの口調になってしまったが、おばあさんは顔を暗くし、どこか納得したように息を吐いた。そして、信じられない言葉を口にする。
「私、あの飛行機事故のとき、あなたを抱いていた女性の左隣に座っていたのよ。あの方もあなたが生後10日だと言っていたわ。あなたがあまりにも可愛らしい赤ちゃんだったし、私は子供が大好きだから、あの方に話しかけていたのよ。あの日は新婚旅行先の東京から、シンガポールの職場に戻っていたんだけど、夫そっちのけであの方と話していたわ」
 そこで一瞬、顔を曇らせる。
「その夫もあの事故で亡くしてしまったけれどね」
 おばあさんは最愛の人を事故で亡くしていた。あの事故は、たくさんの人に深い傷跡を遺していった。あまりに多くを奪い去った。俺にまつわるすべての情報も――俺を抱いてくれていたという女性は、きっと親戚か何かだったと思っている。
 後で確認したところ、搭乗記録が今ひとつはっきりしないのだった。日本人国籍であることは間違いない。俺なりにできうる手段を使って、日本国内まで情報を探ってもらったが、その女性というのが戸籍はあれど、そのルーツまで辿り着けなかったのだ。たとえば、出身校はある。しかし、そこはすでに廃校になってしまっている。どこかで就職していたかどうかは不明。その女性を知る者が本籍地にいるかというと、いない。
 ここ、離れたシンガポールから探るにはあまりに情報が無さすぎた。仮に、日本に渡ったとしても一緒だろう、と日本をよく知る情報屋は言っていた。言葉の壁はあまりに大きい。
「――そうそう、あの時、あの方の右隣に座っていた、日本人の高校生の女の子とも話したの。ナナカちゃんとかいう名前だったっけ。早稲田大学に進学したお兄さんがいるって言っていたわ。あの子も確か、亡くなってしまったけれど……」
 あの方、とは俺を抱いていた女性だ。その右隣に座っていた女の子……俺は飛行機の機内をイメージした。
 赤子の俺がいて、その俺をあやす女性。そして、その左に、このおばあさんが今より30歳も若い状態で座っている。そして、俺は、女性に抱っこされたまま、右を向く。指でもくわえながら。そこには、日本の高校生の女の子がいて、どんな髪型だろう。どんな子だったのだろう。当然、思い出せるはずもなかった。
「ナナカ……?!」
 しかし、声は思わぬところからあがる。
 キナーの執事のサカモトだ。サカモトは、おばあさんに詰め寄る。年の頃では同い年くらいの二人かもしれない。
「すみません。あなたはナナカ・サカモトと……」
 フルネームで、念を押すように確認する。その顔は、嬉しさと悲しさの入り混じった複雑なそれをしていた。
「あっ、そうよ、ナナカちゃんはそういう名前だったわ!」
「じゃあ、あなたは私の妹と……最後に話したという訳ですね」
「えっ、あなたは……まさか……」
「はい。私は、ナナカ・サカモトの兄のカズオミです」
 あまりに、出来すぎていた。
 その奇跡に感激したのか、おばあさんはハンカチを取り出し、ぽろぽろと涙を溢し始めた。
「お会いできてよかったわ。前からずっと、ナナカちゃんのことが気がかりだったもの。それに……セイジ君にも……」
 ――セイジ君。
 聞きなれないけども、なぜか胸が熱くなる。もしかしたら、そう呼ばれていたかもしれない。
「あの飛行機に乗っていた赤ちゃんは、確かそういう名前だったわ。『青二』って書いて『セイジ』って読むって……ごめんね、セイジ君。家族がいないってことは、誰にも引き取られなかったってことよね。私が引き取って育てていれば、きっと、家族がいなくて一人ぼっちってことには、ならずに済んだのに ……」
 おばあさんも、言いながら疑問に抱いていることもあるのだろう。
 普通、飛行機であれば記録を辿れば両親に辿り着くはずであるし、それが不可能でも、赤子の本名くらい、名簿を見れば一発でわかることである。それができないということは、その女性が少なくとも、俺の名前に関しては偽名を用いたということに他ならない。複雑な事情が、そこにあったと推測される。
 ――だけど。
 改めて、おばあさんの顔を見る。どこか、心が晴れ晴れとした。こちらが礼を言うことこそあれ、謝られる筋合いなんてものもないし、謝られたくない。
 ここで、誰かを、あの事故を、何かを責めてしまったら、それは俺の「イマ」を否定してしまうことになる。
「どうか、僕に謝らないでください」
「でも……」
 つとめて、丁寧に、柔らかくなるように気をつけた。感情の昂ぶりは、怒りではないにせよ、時に人を誤解させてしまうから。
「僕は、確かにあの事故の後に施設に送られて、ずっと一人ぼっちでした。でも、施設を飛び出して以来住み着いたスラム街にも友達がいたし、高校生になってからは、あそこにいるユリシーズ先生やクレム先輩やドニー先輩、さっき捕まったアルと出会い、みんなとは家族のように仲良くなれました。それに……」
 そこで、俺は区切った。格別や特別。そういった、感謝の念をこめて、言葉を発する。
「それに、僕は2年前、エイドリアンと出会い、時間はかかったけど、親友になりました」
「エイドリアン?」
「はい、あそこで泣いてたアイツです」
 おばあさんが視線をエイドリアンに移すと、エイドリアンがちょっと照れたように会釈した。この会話もすべて聞こえているのだから、今頃、内心はかっかしていることだろう。
「僕はアイツと、このレースに出ることを決めました。これはテレビで放送されるから、テレビに映れば、僕の両親の目に留まると思ったからです。アルが捕まってしまって、この計画はオジャンになってしまったけれど、僕は僕のことを少しでも知っているあなたに出会えたから、幸せです。つらいこともたくさんあったけど、僕はこの人生を気に入っています。だから、謝らないでください」
 思えば、単純な、子供じみた理由だった。たったそれっぽっちの、希望にすらなれないほどの小さな動機で、俺たちはレースに臨んだ。
 だけど、そんな夢みたいな馬鹿げた願いでも、こうやって、何らかの実を結ぶ。
 俺。サカモト。そして、このおばあさん。あの飛行機事故に関わる人間が、三人もこの場に会している。異様なことだった。何らかの操作を感じずには居られない。
 だけど、それでも良いと思う。こうやって、俺は俺の過去を知るきっかけを、確かに手にすることができたんだから。それは、実を結んだと言って、過言ではないだろうと思う。
 微笑んで見せると、おばあさんは静かにうなずいて言った。いや、おばあさんは失礼か。たぶん、見た目よりもうちょっと若いだろう。
「セイジ君……よかったわ。私は――シルヴィア・ボキューズは、あの事故の直後に、薄れいく意識の中であなたの力強い泣き声を聞いたのよ。救助された後、あなたは無事だと聞いていたけど、会うことは叶わなかった。でも、こうして今、立派な男性になったあなたに出会えて、本当に嬉しいわ……セイジ君、今は何て名前なの? あの事故の後、何ていう名前をつけてもらったの?」
 名前。エイドリアンと一緒にいる、俺の存在しているという証。
 堂々と言った。セイジ。確かに、いい名前だと思う。そう呼ばれたかったとも思う。だけど、今の俺はこれがやっぱり一番しっくりくるんだ。
「コリンです。コリン・ロウです」
「そう……コリン君、いや、コリンさん。いい名前をつけてもらったわね」
 シルヴィアがそう言った瞬間だった。
「ごめんなさい! レースが中止になったのは、ウチのせいなんです!」
 ポーラ。先ほど、冷たい笑みを浮かべていた女が泣き崩れている。
「ね、ねぇ、ポーラ、どういうこと?! ポーラのせいだなんて、そんなこと、絶対ありえないし、それに、ボクはポーラみたいな優しい子が、レースを中止にするようなことはしないってわかってるし……」
 ナターシャが慌てて、フォローする。しかし、それを遮り、ポーラは叫ぶ。
「違うの! ウチはレースのことは全部知ってるの。レースが中止になった原因も……」
 俺にはこの発言もすべて意図されたものであるように思えた。
 あまりに唐突すぎるし、怪しすぎる。先ほどまであんな笑みを浮かべていたヤツが、今の俺とシルヴィアの会話を聞いたくらいで、こんな風に大泣きするなんて不自然すぎる。しかし、ナターシャは別段気づいた様子もなく声をかける。
「どうして……?」
「このレースに星龍(シンロン)が絡んでるから」
 ナターシャははっきりと、その単語を口にした。
 世界を股にかけるマフィアだった。しかも、タチの悪いことにシンガポールに拠点を置いている。お蔭で聞きたくもない噂まで耳に入ってくるし、見たくもないものまで裏通りでは見てしまう。あまりに、危険な連中だった。絶対に係わり合いになりたくない。
 だが、俺は頭に閃くものがあった。一種の予感めいたそれは、しかし、徐々に大きくなっていく。
「でも、なんで星龍とポーラが関係あるの?」
 ナターシャは素直な子なんだろう。ポーラのことを疑うことなく、次々と率直な質問を投げかける。
 そして、ストレートな答えが返ってきた。これには、俺もさすがに予想外だった。
「ウチは、星龍のスパイだから」
 と、ポーラは表情を少し変えた。それは先ほどまで泣いていたものとは違う、ポーラが本来持っている、裏の顔であるように思えた。
 たくさんの人と出会って、アランが捕まって、俺のことを知っている人が現れて。俺の頭の中はごちゃごちゃだった。その中で今確実に重要だと思う情報を抜き出していく。
 俺は飛行機事故にあった。俺の名前は、搭乗者名簿では確認が取れなかった。俺を抱いていた女性の戸籍はあったが、そこから、女性を知っている人に辿り着くことは、ここシンガポールでは不可能であった。今までは。だが、事故の瞬間を知っているシルヴィアに出会い、俺と一緒の飛行機に同乗していた少女ナナカの兄だというサカモトとも出会った。
 同一の事故と関係する三人が、この場に集合した。今まで、まったく辿り着けなかった情報に、今日こうやって俺は出会った。そして、このレースの真実を知っているという女ポーラは、星龍のスパイだという。何をスパイしていたのかはわからない。その言葉を信じるのも馬鹿げているが、それを信じてしまうほどの事実が、このレース会場にあまりに揃いすぎている。
 30年前の飛行機事故と星龍が関わっており、今回のレースに30年前の事故の関係者を集めた……そう考えてしまっても仕方がないだろう。そうして、30年前の飛行機に、俺は何らかの理由で、身元を隠された状態で乗っていた……。星龍という係わり合いになりたくない組織こそ、俺の身元に辿り着くために必要なものなのかもしれない。
 そう考えると、頭がくらっとした。こめかみが痛む。俺は思わず、胸元のペンダントをギュッと握り締め、ポーラを鋭く睨みつけた。

 ポーラの衝撃のカミングアウトを聞いて、動きを見せた男がいた。ドニー先輩だった。なにやら、手にしている。さっきとはまったく違った、冷たい表情をしている。
「良かった。今、これを持っていて」
 キチキチキチ、とこの場においては場違いな音が聴こえた。カッターナイフだ。
「ドノヴァン・リー! それで何をする気だ?!」
 ユリセス先生が叱咤するが、ドニー先輩は気に止めた様子もなく言ってのけた。
「大丈夫です、先生。彼女を殺しはしません。ただ、一生舞台に立てなくするだけです」
 何が「大丈夫」なのかわからない。これは、完全にキれたヤツの言う台詞だ。眼鏡ごしの瞳も、どこか狂気が滲んでいる。
 周囲が皆、呆気にとられているのも構わず、ドニー先輩は続けた。
「ポーラ・テイラー。君が駆け出しの女優だってことは知ってるよ。僕はあまり目立ってはいないけど、君と同じ仕事をしているからね。だから、僕の大親友が社会に出られなくなったみたいに、君も社会に出られなくしてやるよ。死ぬ訳じゃないから安心して。ちょっと顔に傷跡をつけるだけさ。一生消えない傷跡をね」
 ポーラが少し震えているように見えた。果たしてそれは演技なのか、それとも本心なのか。
 ドニー先輩が言っている「大親友」というのがクレム先輩のことだと俺には一瞬でわかった。そして、ふと、さっきのクレム先輩と妹のやりとりのぎこちなさの答えに辿り着いた気がした。普段はのんびりしているドニー先輩が何らかの感情を見せるときは、たいていが親友がらみのことである。さっき、クレム先輩のことであんな態度を取ったのはおそらく、クレム先輩がクスリのことで妹と何か過去に一件あったからだと思えた。
 俺はちょっと謎が解けたが、ポーラは何もわからず、きょとん、としている。そりゃそうだろう。ドニー先輩のキャラもわからなければ、星龍の末端がやっていた個人間のクスリのやりとりレベルまで、ポーラがいちいち全て把握できているはずもない。
 しかし、その態度がまずかった。しらばっくれていると感じたのか、ドニー先輩の目つきが更に鋭くなる。まずい。
 何にしても、キれたドニー先輩は手が付けられない。俺はそう記憶している。クレム先輩をボコボコにした不良の連中を返り討ちにしようと、ナイフを持って他校へ乗り込んでいき失敗したことが昔あった。それは事後に聞いた話だったが、実際に、キれた現場に出くわしたこともある。街中で一度だけドニー先輩が大爆発したことがあるのだ。このときは、エイドリアンが不良に絡まれたときだった。そのときは俺とクレム先輩で二人がかりで必死に押さえ込んだ。あまりの大振る舞いに、絡まれていたはずのエイドリアンまでドニー先輩を抑えようとして、運悪くドニー先輩のゲンコツを顎にお見舞いされて気絶してしまった。後で、エイドリアンに必死に謝っていたし、本音はすごく優しい人だっていうのも、俺は知っている。
 だが、この場においては、止めないとまずい、と直感が伝えていた。ポーラの本心はどうであれ、刃物っていうのは流石にまずいだろう。さっきの警察画またこの場所に逆戻りしちまうぜ……。
「よせ、ドニー!」
 ユリセス先生が叫ぶ。
「嫌です! 僕が星龍を心の底から憎んでいることくらい、わかるでしょう?!」
「でも、俺は教え子がそんなことをしているのを見たくはないんだ!」
「関係ありません!」
 教師と生徒。神聖なるその立場さえ覆し、ドニー先輩は手にした狂器を振るった。
 だが、それはすんでのところで、中年の女性に手を捕まれる。テリーだ。テリーはそのままドニー先輩の頬を引っ叩いた。
「私の大事な幼馴染を、困らせるんじゃないよっ!」
「チビ子……?!」
 ユリセス先生がそう呟く。
 何で止めるのか、と言いたげに睨んだドニー先輩を、さらにきつい目で睨み返す。
「イヤミは……いや、ユリセス・テオフィストは私の大事な幼馴染なんだよ!」
 エイドリアンが小さく「あっ」と声をあげた。ということは、そうか。俺も理解できた。
 ユリセス先生の一人息子のあだ名は「ニャロメ」だ。そして、「イヤミ」に「チビ子」。「チビ子」は居たか居なかったか覚えていないが、「イヤミ」ははっきり覚えている。日本の有名アニメという共通点で、これら全ては結ばれている。
「久々に会えて嬉しかったから、挨拶の一つや二つぐらいしようと思ってたところさ。なのに何で私たちを困らせるんだい?!」
 そのとき、テリーの相方のヘンリーが怒鳴った。
「トリニダード・リード! 何であの男に近づこうとするんだ!」
「ヘンリー!」
 わざわざもったいぶってフルネームで呼ぶあたり、相当怒っていると思えた。
「あんな人殺しには二度と近づくなと言ったはずだぞ、トリニダード!」
「うるさいよ! 人殺しはアンタも一緒だろうが!」
 何がなんだかもはやわからない。
 誰が何を殺して、殺してないのか。誰が殺したククロビン、とかなんかそんな日本のアニメもあったっけな。
 それと一緒で、きっと何かの比喩だろう。ユリセス先生が人殺しだなんて、さすがに考えられない。
 しかし、過去にこの三人の中では何かあったのだろうと思えた。それが悲しい誤解であることを、ユリセス先生をよく知る俺にはわかる。
「もう、やめてください!」
 ロジータが叫び、泣き出す。それをロヴィルソンが抱きかかえる。ロヴィルソンが何か言おうとして、それをキナーが遮って叫ぶ。
「いい加減になさい、あなたたち。人を責めて何の特になると思いまして?」
 いかにも正論だった。誰も何も言い返せない。 賞賛のひとつでも捧げたいくらいだ、と思っていたら、「やるじゃねぇか、お嬢」とモニカが囃した。しかし、
「――!!」
 ヘンリーが、立ち上がっているキナーの頬を殴った。
 左頬を押さえて、キナーは倒れこむ。ブレットが地面につく前に助けようと駆けつけるが間に合わず、倒れているキナーを優しく抱きかかえた。
「ふざけんじゃねぇよ!」
 相当痛むのだろう。左頬をおさえてうずくまるキナーを見て、モニカが怒鳴った。
「うるせぇ! 小娘に何がわかる!」
 ヘンリーが激昂して、拳を振り上げながら叫ぶ。
「テメェこそ、何も悪くないヤツに手ェ出して、恥ずかしく無ェのかよ! おい! ……ちっ」
 それ以上は無駄と判断し、先にキナーの様子の方が心配になったのだろう。声をかける。
「お嬢、大丈夫か?」
「ええ、心配される程でもなくてよ」
 モニカとキナーは微笑み合っていた。ブレットがそれを見守る。
 初対面のはずの二人があんなに思い合っているのに、このヘンリーとやらは何だ。だんだんムカついてきた。一言なにか言ってやろうとしたが、エイドリアンの視線に気づいた。何か言いたげな、寂しそうな視線に。何だかばつが悪くなり、俺はふと見つけた。ドニー先輩がどうしたものかと、周囲を見回しているところを。
 きっと、自分がきっかけでこんなことになったので、少し頭が冷えたんだな。あと何か、そうだな。甘いものでもあれば、みんなちょっと優しい気持ちになれるんじゃないかと思った。昔、バイトしていた頃の癖かそんなことを考えてしまう。通っていた高校近くのアメリカ菓子店「Peachie Cheekie」のことを思い出し、少し悲しくなった。
「みんな、聞いて」
 この空気を何とかするべくダイアンが口を開く。
「とりあえず、みんな落ち着いて。アランが捕まって、レースはオジャンになったから、私たちには解決しなくちゃいけない問題が山積みになったわ。でも、少し落ち着いてみんなで考えれば、きっと解決できる。“三人寄れば文殊の知恵”っていうでしょ? きっと大丈夫よ」
 言っていることはそれっぽかったが、解決しなければならない問題は山積み、というほどでもないような気がした。
 むしろ、俺にとったらただ一点だけが重要で、もはやそれ以外はあまり見えていなかった。そう、シルヴィアさんという情報。ここから何かが開けるような気がして仕方がない。ただ、それに付随する星龍という組織も気にかかる。ということは、ポーラもこの場で逃すわけにはいかない。いや、待てよ。このレースに、あの飛行機事故の関係者が集まっていて、そこにポーラという星龍を知る存在がいる。それなら、このレースの企画そのものも少し怪しくなってくる。じゃあ、中止された事件の背景も気にかかる……やっぱり、全部を知る必要があるかもしれない。
 ――頭がこんがらがってきた。
「まぁ、とりあえず、みんなでチョコレートでも食べない?」
 悩んでいたら、アンナの明るい声が聞こえた。
 視線を向けると、アンナは微笑んで竜苦の中からチョコレートを取り出した。それは、チョコレート・カヴァード・チェリーだった。
「ダイアンはショコラティエールなの。これはダイアンご自慢のチョコレート・カヴァード・チェリーよ」
 アンナがダイアンの代わりに説明する。
 さっき、チョコのことを考えていてこのタイミングで出て来たことに感動を覚えつつ、そのチョコレートから漂う甘い香りに、なぜか少し涙腺が緩みそうになる。一言でいえば、懐かしいのだ。この香りは、そうだ。覚えがある。あの、高校の前の、今はもうないお店――。
「どうしたの、コリン?」
 エイドリアンに問いかけられ、我に返る。
「いや……前に働いてた店のチョコと、同じ匂いがするんだよな……」
「えっ、でも、その店は……」
「……わかってるさ。多分、修行した店が同じだと思う」
 エイドリアンは表情を暗くした。そう、「働いていた」んだ、俺は。過去のことである。
 店は、「Peachy Cheeky」はもうない。マフィアの砲撃に巻き込まれ、壊滅してしまった。皮肉なことに、そのマフィアが「星龍」である。
 ここに来て、また接点がひとつ増えてしまった。いや、増えたのではない。壊滅した店の跡地を思い出す度、胸が張り裂けそうになるため、あの店のことはもう考えないように、なるべく思い出さないようにしていたんだ。けれど、最近は少しマシになって、おやつを誰かに作る程度には向き合えていた。
 だから、このタイミングはむしろ、運命なのかもしれない。運命なんて、テキトーなものを信じたくなんてないのだが。
「ねぇ、チョコちょうだいチョコちょうだいチョコちょうだい!」
 一際目立つ、歓声が聞こえた。
「ドニー!」
 クレム先輩が恥ずかしそうにする。なんと、ドニー先輩だった。
 この人は本当に……と、少し呆れてしまう。この騒ぎの張本人だというのに、この反応である。もともと、かなり子供っぽいところのある人だった。アンナのチョコレートは本当にこの場においては最大の効能を発揮してくれている。
 アンナは微笑むと、クレム先輩とドニー先輩にチョコレートを手渡した。そして、アニキのところへ向かう。
「あなたも食べない? おいしいわよ」
 アニキは顔を上げ、驚いたように声をあげる。
「おばさん……ティナおばさん……」
 それは、アニキの伯母の名だった。
 アニキだけではなかった。エイドリアンも戸惑いの様子でアンナを見ている。確かにティナおばさんに、似ている――。
 そして、同時に昔のことを思い出す。軽い反抗期のような状態だった俺が、生みの親のことが気になって荒れていたときのことを。あのときは、ティナおばさんにも強く当たったっけ。あのとき、ティナおばさんは俺の頬を打ち、それから抱きしめた。ひどく、あたたかかった。
 そして、自分の生い立ちを話してくれたのだ。どこかに、生き別れの妹がいることも。もし、ティナおばさんの妹が結婚して子をなしていればちょうど、アンナくらいになるのではないか。
「痛っ……!」
 突然、アンナがこめかみを押さえ、しゃがみこんだ。アニキがその身を支えようとしたが、大丈夫だったようで、アニキは落ちかけたチョコレートを拾うにとどめた。
「どうしたの、アンナ?!」
 ダイアンがアンナを気遣う。
「大丈夫よ、ダイアン。ただ……私、この人に何か懐かしさを感じるの。ダイアン、私が記憶を失う前に、この人と会ったことってあるかしら?」
 記憶喪失――アンナはどうやら過去のことを忘れている様子だった。エイドリアンも今は普通にしているが、実は昔々のことが抜け落ちている。この共通点には、星龍がらみで何かあるような気がした。
 現時点では推測は不可能だが、アンナの顔を見ていると、あまりにもティナおばさんと酷似している。彼女が、ティナおばさんと血縁である可能性は捨てきれなかった。
「ううん……私、この人とは初対面よ。それに、アンナもこの人に会ったことは無いと思うわ」
 アンナとダイアンの会話の意味するところはよくわからなかった。しかし、俺は、確かにアンナの中にティナおばさんの面影を見出していた。
 もっと詳しいことを聞きたい。そう思った。けれども、それは、大事になるのを恐れてエイドリアンたちにあえて黙ったままティナおばさんはこの世を去ったのだ。それなら、俺がここで口を出す必要性はない。出しては、いけないのだ――
 その、思考をさえぎるように女性の高らかな声が響いた。
「警察よ! 全員その場を動かないで!」
 二人の女性警官が歩み寄ってくる。警察手帳を片手にちらちらと示しながら。俺はその動作がひどく嫌いだった。
「私は国際警察星龍対策課警部、ディンプル・イナンダー。今回のレースに星龍が関わっている可能性が強いから、捜査に来たわ」
「私はスネイナ・グリア。イナンダーと同じく国際警察星龍対策課警部よ」
 セミロングがディンプル、ロングがスネイナというらしい。
 スネイナが自己紹介もそこそこに続ける。
「それにしても、よくこんなに星龍に関わりのある人間を集められたわね、このレースのスタッフは。レーサー全員が星龍に関わりのある人間だなんて、本当に信じられないわ」
 警官にありがちな、独りよがりな一方的な説明だった。そして、不躾に続ける。
「それはさておき、あなたが、テレンス・リュウね? アラン・ウーに殴られたのは、あなたで間違いないわね?」
 それくらいどうせ調べたらわかることだろう。なぜあえて、この場で、本人の口から大衆の前で言わせるんだとと俺は少し腹が立ったが、意に介した様子もなく、アニキはうなづき、肯定した。
「最初は、向こうからぶつかってきたんです。俺は頭に来たから、あいつに暴言を吐きました。『まだ、ジャンキーとつるんでんのか』って……」
「待って……。その“ジャンキー”って、まさか……」
 ディンプルが止める。この流れから、そのことがクレムを示していることは簡単に推測できた。
 この場に及んでその話題を取り上げるのか――。いい加減、頭に来て声を張り上げようとしたそのとき、
「そこから先は言わないで!」
 ソフィーだった。
「お願いだから!」
 俺はその一言で、頭に上った血が一気に引いていくのがわかった。
 ソフィーとクレムの関係も、深いものであると理解した。この場においてはきっと、俺のほうが部外者だろう。危うく、余計に話をややこしくするところだった。
「……わかったわ」
 ディンプルもソフィーの言葉を聞いて、分を弁えたのだろう。
 警官というものはいつもこういうところで気が回らない。怒らせて初めて、こうやって引くのだ。いや、あるいはわざと怒らせるよう仕向けているのかもしれない。捜査を進めやすくするために。
「テレンス、あなたが暴言を吐いたから、アランはあなたを殴ったってことね」
「……はい」
「要するに、お前のせいでレースは中止になったってことだな」
 今まで黙って聞いていたダイチが突然声を張り上げた。
「ふざけるな!!」
 そして、アニキに近づき、顔面を殴りつけた。
「イチ君、やめて!!」
 案であるサワカが叫ぶが、ダイチは聞く耳を持たない。倒れこんだアニキの顔を今度は蹴りつけた。
 俺が止めに入ろうとするより先に、アンナがダイチを止めようとして、そして殴られた。
「黙れ! レースを中止にした野郎の肩を持つ気か? この腹黒女が!!」
「ざけんじゃねぇ!」
 やられっぱなしだったアニキが立ち上がり、ダイチの胸倉を掴んだのを見て、俺は加勢するのをやめた。
 もやしっぽいダイチが、アニキに敵うはずがないと思ったのだった。
「てめぇ、よくもそんなことが言えるな!」
 アニキは自分のことならまだしも、他人のことを馬鹿にされたのがむしろ気に食わなかったのだろう。
「お前は黙ってろ。レースを中止にしたくせに、よくでかい口が叩けるもんだな」
 ダイチもダイチでもう完全に怒り心頭で、誰に対して怒っているのかわかっていないようだった。アニキから怒りの矛先がアンナに移り、アンナからまたアニキへと移る。
 そして、アニキもアニキでぶち切れ、ダイチを殴ろうとした瞬間、
「やめて!!」
 エイドリアンが間に入った。
「二人ともやめてよ!」
 まさか、エイドリアンが割って入るとは夢にも思わなかった。アニキもそうだったのだろう。だが、ダイチは違っていた。今度は怒りの矛先が、エイドリアンへと向かう。
 そして、エイドリアンを殴ろうとし――
「俺の親友を殴るんじゃねぇよ!」
 今まで冷静に観察していた俺だったが、これだけは断じて許せなかった。
 いつも「僕」という一人称を心がけていたことさえ忘れ、ただダイチに怒りをぶちまける。
「エイドリアン・ヤップを殴る奴は、神とやらが許してもこのコリン・ロウが許さねぇからな!」
 だが、そんな俺の様子を見て、ダイチは馬鹿にしたような笑みを浮かべる。
「だから何? 親友? 冗談じゃないよ。どうせ馴れ合いだろ」
 こいつは一体何をしたいのか――。その目に映る感情は読み取れなかった。
 もしかして何か怪しいクスリでもやってるんじゃないのか。そうとさえ思えてしまうくらい、行動理由が読めない。あるいは、それほどの想いを、俺やエイドリアンなんかとは比べ物にならないほど重要な事情を抱えてこのレースに挑んでいるのかもしれなかった。
「やめなさい、川島大地!」
「姉さん……」
 結局、終息させたのは姉の一声だった。
 姉弟は日本語で何事かやりとりした。ダイチの表情は少し悲しげで、拾われた犬みたいになっていた。
「ダイチ・カワシマ。あなたのお姉さんが言うとおり、やめた方がいいわよ。私たちにはあなたを逮捕する権限もあるんだから」
 この騒動を巻き起こした張本人だというのにスネイアは得意げに言ってのけた。
 個人情報を出されると、人は弱いものである。相手が自分のことを知っている。しかもその情報の範囲はわからない。こうなると、人は少し立場が弱くなる。あれほど息巻いていたダイチも少し戸惑った様子であった。
「お前、なんで僕の名前を……?」
「あなたたちのデータは参考として取ってあるの。レースの出場者が決まった時点で、何かにおうと思ったのよ」
 それ見たことか、と俺は思った。
 こいつらはそういう人種なのだ。スラム時代から、俺はそのことをイヤというほど思い知っている。アニキの事情にしたって、この場で切り出したのには、絶対にこいつらなりの思惑がある。
「だから、極秘にデータを集めておいたわけ。あなたたちのデータは全部、この中に入っているの」
 スネイアはそう言って、鞄から一冊の本を取り出し、ふふん、と鼻を鳴らした。しかし、それは――
「スーさん!」
 ディンプルが相棒を愛称でたしなめた。
 それもそのはず。本の表紙には、「サルでも勝てる! 将棋必勝法」と書いてあったからだ。
「あ、間違えた。こっちだ」
 スネイアはもう一冊の本を僕らの前にかざした。今度こそ、それっぽい手帳だった。
「コホン。と、とにかく、あなたたちのデータは取ってあるの。だからあなたたちの名前はわかるし、過去も知っているわ。それから……」
 前言撤回すべきか。こいつらは単にあほなだけで、深い策を講じているわけではないのかもしれない。
 半ば呆れて見ていると、スネイアはこちらを振り向いた。
「コリン・ロウ。あなた、そろそろ友達のところに行きたくなったんじゃないの?」
 ――このタイミングで、その質問を。
「友達って……?」
「アランのところよ」
 俺はスネイアの意図を読み取ろうと、慎重に言葉を選ぶが、相手も冷ややかな目でこちらを見つめてくる。
 この女、読み取れない。どちらにせよ、この流れでは乗るしかない気がした。
「行ってもいいんですか?」
 少し声が緊張で高くなる。
「大丈夫よ。取調べもあらかた終わっただろうし、面会はできるわよ」
 どうやら、俺ひとりだけお誘いを受けているらしかった。
「アラン・ウーからの頼みなのよ」
 こっそり耳打ちしてくる。果たして、どこまでが本当か。星龍の手は警察にも及んでいると聞く。
 この誘いが何なのかはわからない。けれども、乗るしかない。このレースが胡散臭いのは確かだが、たかだか、俺みたいなやつ、陥れるほどの価値もないだろう。危険性と相手の企み。そういったすべてを秤にかけて、俺は頷いた。
「ありがとうございます! ……だけど、どうやって行けば……?」
 警官二人は、別に行くところがあるから車に乗せられないということだった。
 俺はここでキナーから提案を受け、高級車(であるらしい)ロワに乗せてもらうことになった。なぜか、シルヴィアさんも乗りたがったが、特に断る理由もない。同乗することになった。
 車に乗ろうとすると、ロジータが駆け寄ってきた。
「あの……コリンさん、私、アランさんにアップルハンドパイ(手づかみで食べられるアップルパイ)を焼いてきたんです。よかったら、アランさんに渡してください」
 女の子から贈り物か、ちょっと妬ける。
「私からも。一個はあなたが車の中で食べればいいわ。」
 アンナも金色の銀紙に包まれたチョコらしきものを二個くれた。その顔を見つめる。やっぱり、ティナおばさんに瓜二つだ。
「オジキ! ちょっと待ってて!」
 愛すべきクインシーである。こいつはいつも、愛情をこめて「オジキ」と呼んでくれる。本当にかわいいやつだ。
「どうした、クインシー?」
「ちょっとだけ待ってて!」
 クインシーはユージーンと何やらひしひそ相談し、自販機へと向かった。「これ、アル兄ちゃんに」
「ああ、ありがとう」
 缶コーヒー、だった。幼い二人のかわいい提案に、思わず頬がほころぶ。
 エイドリアンの顔を見る。エイドリアンは無言で頷いた。エイドリアンは、自分だけ呼ばれなかったことを果たしてどう感じているだろう。帰ってきてから、すべて説明してやろうと心に決め、俺もエイドリアンに頷き返した。
「あっ、ロワだ、ロワ! オーレリア、乗りたい!」
「僕も!」
 ロワが到着し、二人が騒ぐ。シルヴィアさんとクレムが恥ずかしそうにしていた。
 ロワの運転席からサカモトさんが出てきて、後部座席のドアを開けてくれる。俺は案内されるままに、乗ろうとして――
「コリン!」
 エイドリアンが叫んだ。何か言いたそうにしている。
 このあまりの展開に、頭の中がまとまらず、かける言葉が出て来ないのだろう。それはでも、俺も同じことだった。だから、俺は笑ってみせた。それはきっと、どんな言葉よりも強く、響くと思ったから。
「心配すんな、エイドリアン!」
 少しほっとしたように、エイドリアンは力無く笑ってみせた。
「サカモト、報道陣が詰め掛けている可能性がありますわ。気をつけて!」
 キナーの忠告に頷くと、サカモトはシルヴィアさんを助手席に誘った。
 そして、サカモトがシートベルトを締め――エンジンをかけた。
 俺は後部窓からレースの会場を見た。エイドリアンが手を振っていた。みんなが、手を振っていた。
 それがだんだん遠ざかっていき、俺は考えるのをやめ、ゆっくりと目を瞑った。

←序章・エイドリアン視点へ  序章・コリン視点2へ→
inserted by FC2 system