序章・コリン視点2

 到着したのは、シンガポール警察である。その建物は、ただそこにあるだけで圧倒的な威圧感を放っていた。
 それもそのはずである。シンガポールが国家として独立してわずか三十余年。多民族、多言語、多宗教から成る複雑な都市国家でありながらバランスよく統治されているのは、紛れも無く、くそったれたこの国家権力のお蔭なのだから。
「つきましたわね」
 シルヴィアさんがそう言って、席を立とうとする。俺はそれを制した。
「ひとまず、待っていてもらえませんか」
 シルヴィアさんは少し考え込むような表情を見せたが、うなずき、助手席に座りなおした。運転席のサカモトは俺に視線を送り、無言で頷いた。
 危険はないと思う。けれど、また厄介な事情聴取などがあれば、この二人を巻き込みかねない。警察のお世話になるのは慣れっこの俺だ。ここは一人の方がいいだろう。そう判断して、二人を車内に残し、俺は単身、シンガポール警察の中へと歩いていった。

 *

「待っていたわ。コリン・ロウ」
 受付に名を告げるだけで通されたのは、いかにも閑職といった人間の集まりそうな小汚い部屋だった。
 ところかしこに、物が散らかっている。将棋版なんて、誰が何に使うんだ……と思って、ああ、と目前の人物を見て納得した。ロングの髪をかきあげる、スネイナである。
「……俺はお前らに会いに来たわけじゃないんだが」
 努めて感情を押し殺して、言う。
「わかってる。アラン・ウーでしょう。けど、今あなたが会いに行っても同じなのよ。だから、こうして……」
「いいから早くアルに会わせろっつってんだろうがッ!」
 思わず怒鳴りつけてしまい、ディンプルとスネイナの驚いた表情を見て、すぐに冷静になった。
「すみません……アルに会わせてください」
 スネイナとディンプルは顔を見合わせ、優先順位を変更した。
「いいわ。先にアルに会いに行きましょう」
 連れて行かれた先は、面会室だった。担当が違うということで、スネイナとディンプルは席を外した。
 待つ事しばし。アルが男の警官に連れられて、出て来た。
 そして、透明な防弾ガラス越しに、俺はアルと面会した。
「やあ、アル」
 声をかけても、返事をかえしてくれない。会いたいと言ったのは自分のクセに。
「高校以来かな。こうやって話すのって」
 しかし、やはり返事が無い。
「なんだよ、アル。警察だからって、そんなかしこまらなくていいんだ」
 アルの横に男の警官がやってきた。
「なあ、アラン・ウー。相手の顔をよく見て、よく答えてやれよ。お友達だろう?」
 しかし、アルは首を横に振った。
「こんなやつは知らない。大方、単なる俺のファンだろう。個人的な接点までは無い」
「なんでだよ、アル!」
 アルはしかし、首を振るばかりで、隣にいる男の警官は肩をすくめて見せた。
「俺は、お前を、知らない」
 俺はアルの目に気づいた。そして、自分の胸元に視線を落す。何か、伝えたがっている気がした。
「知らない?」
「ああ、知らない」
 ペンダントが、アルがいつだったか俺とおそろいだと言ってどこかのアンティークショップから見つけてきたペンダントが今はアルの胸元にない。
 それをつけていない時点で何かおかしい気がした。きっと、アルは話せない事情があるに違いなかった。
 俺はアルに、いつも身につけているスポーツウォッチを見せた。高校時代、寮が同室だったアルとの友情の証だった。アルは一瞬だけ目尻を下げ微笑み、そして、俺を指さしながら怒鳴った。
「俺は、こいつを、知らない! トイレに行きたい。早く独房へ帰してくれ!」
 男の警官が叫ぶアルを押さえつけ、「面会は終りだ!」と声を上げた。
 俺はアルが俺に指をつきつけるジェスチャーをしていたときに、それが俺の胸元のペンダントを指していたんではないか、と思い当たった。推測を確信に変えるには――
「わかった、最後に、みんなの……贈り物だけ預かって欲しい! みんなの、心なんだ!」
 そう言って、俺は自分の心臓の位置――否、ペンダントを指さし、叫んだ。
 アルは警官に羽交い絞めにされながらも微笑み、「ああわかった! ファンの心は確かに受け取った! 俺からも何か贈りたいが、その機会はポリ公に取られてしまったのが残念だ!」と叫び、警官に連れられて消えていった。俺は後ほど、警官に「さわぐな」と叱られ、アルへのプレゼントを置いてそこを去った。
 面会室を出て、胸元のペンダントを握り締める。
 アルが伝えようとしていたのは、ペンダントのことだった。なぜ、それを……? 疑問だけがぐるぐると頭の中を回っていた。
「おかえりなさい。コリン・ロウ。スーさんの言った通りだったでしょ?」
 ディンプルだった。俺の様子を見て、鼻を鳴らした。
 ちょっと腹が立ったけど、俺はアルのあの行動が気がかりだった。
 ついてきなさい、とまた、最初の部屋に連れて行かれる。相変わらず薄汚い部屋の入り口脇には、客席用のボロソファーが設置されていた。そこにはスネイナが座っており、俺の姿を認めると、微笑み、座るよう促した。
「ふふ、頭の中が不思議でいっぱいなようね。わかってるわよ」
 向かい合ったスネイナがデスクの上に差し出したものは、俺がつけているのと酷似したペンダントだった。
「それは……」
 アルがつけているはずのものだった。たまたま、街の質屋で同じものを手に入れたと、アルが嬉しそうに見せてくれたものである。
「正解はわかっているようね。アラン・ウーのものよ。ペンダントは首吊り自殺に使用される危険性もあるし、脱獄に利用されることもあるわ。だから、私が預かっていた……そういう説明じゃ駄目かしら?」
 腑に落ちなかった。
「ふふ、アラン・ウーのことを話すわ。ディンプル!」
 スネイナに呼ばれ、ディンプルが立ち上がる。
 そして、ドアを開け、廊下を確認し、「人もいないし、盗聴器は前もって確認したから大丈夫」とウインクしてみせた。
「いいこと、コリン・ロウ。信じて、と言っても難しいでしょうけど、私達はあなたの味方よ。いえ、お互いに協力したほうがお互いの為になるっていったほうがいいかしら?」
 どういうことだ、と疑問に思うが、スネイナはその疑問を見越していたらしく、「それもそうよね。ひとまず最後に信用するかどうか教えてくれたらそれでいいわ」とため息をついた。
「コリン・ロウ。元パティシエ見習い。アメリカ菓子店「Peachie Cheekie」でアルバイトとして雇われていたが、星龍による事件に巻き込まれ店が潰れてからはパティシエの道を断念し、以後はフィットネス・インストラクターとして過ごしてきた」
 それくらい、調べれば誰にでもわかる情報だった。
「昔はスラム街に住んでいたけれど、エイドリアン・ヤップの提案により、一般街に移り住む。以後、高校時代は良き交友関係を広げ続け、今に至る。このとき、一般街にろくにお金もないあなたが住むことができたのは、アラン・ウーのルームシェアのおかげね」
 それを知っていれば、先のような騒動は起きなかったはずなのに、いともたやすく、スネイナは説明してみせた。
「このペンダント」とスネイナ。「逮捕される際にあなたに直接渡したくてレース会場に行ったようね。いまどきの腐敗した警察じゃ、家宅捜査の際に盗られるか、ここにつけて入ったところで没収されてどこかに横流しされる危険性だってあるものね」
 確かにその通りだ。現にペンダントはアルの手元にはなく、ここにある。
「だけどね。私たちの手の方が早かったのが幸いよ。アラン・ウーは私たちにわざとこれを取り上げられるようにレース会場に向かうことを電話してきた。そうすれば、私たちは本件の当事者になれるので、アラン・ウーから聴取もできるしね。これは、アラン・ウーから私たち国際警察への依頼、と私は受け取ったわ」
「ちょっと待てよ。国際警察って言って、お前らがいるのはシンガポール警察じゃないか。国内しか活動してなさそうに見えるが……」
 スネイナは、嘆息して、「じゃあ説明するわ」と席を立ち、資料を持ってきた。
「わかりやすく国際警察って言ったのが問題だったようね。正式には国際刑事警察機構(International Criminal Police Organization)、略称をICPOというの。国際的な犯罪防止のために世界各国の警察により結成された国際組織で、加盟国は百九十ほど、国際連合に次ぐ世界規模の組織よ」
 そういえば、日本のアニメのルパン三世で、ゼニガタという警官がそんなことを言っていたような、と脳裏にかすかな記憶がよぎったが、はっきり言ってうろ覚えだった。
「ただ悲しいかな、司法警察権は各国の主権事項に属するため、世界中で捜査活動をする“国際捜査官”っていうのは、漫画の中でしか登場しないの。実体も漫画みたいな大規模な組織ではなくて、各国法執行機関の連絡機関・協議体としての性格が強い」
 専門的過ぎて言っていることが今ひとつわからない。
「それはつまり、シンガポール警察のルールに縛られてる……ってことか?」
「うーん。何て言えばいいのかな。たとえば、私が日本に行くでしょう。日本国籍の星龍のボスを逮捕したとする。そうしたら、それは日本の司法で裁かれるの」
 なんとなく理解はできたが、物凄い例えだな、と思った。
「星龍はどういう経路か、独自の資金源を世界各国に持つ。シンガポールを発祥として、いまや世界にまたがるシンジケートよ。とてもじゃないけれど、シンガポール警察の手だけでは対処しきれない。そこで作られたのが、星龍対策課。ここシンガポールでは、かろうじて私とディンプルがいるだけなんだけどね」
 そういうと、悔しそうな表情を見せた。
「なぜ? あんな大きな組織なら、警察だってもっとたくさんいるだろう。ましてや、ここはシンガポールだ。あいつらのお膝元なんだから対策も絶対に必要じゃないか」
「コリンの言うとおりなんだけれどね。そうはいかないのが、いわゆる悪の組織っていうやつなのよ。警察にも四方八方、敵がいる。私達二人だって、生きているのがいっぱいいっぱいよ。わざと間抜けで、無能なフリをしてみたり……ね」
 そういうと、将棋の本を手に持ち、にっこり微笑んだ。
「だけど、私達は星龍をどうにかしたい……その一点だけで捜査を進めてきた。理由は聞かないで。言うと、私は正常じゃいられなくなるから。それほどまでに憎みたい、忘れたい過去があるの」
 スネイナの口調はつとめて冷静だったが、その瞳の奥には憎悪の火が燃え盛っていた。
「……ごめんね、話が脱線したわ。アラン・ウーがペンダントをあなたに渡そうとした理由ね。はっきり言うわ。アラン・ウーは、真実を少なからず知っている。しかし、それを述べると殺される立場に居る」
「あ、アルが!?」
 衝撃の一言だった。
 スネイナはあわてて人差し指を口元に立てる。静かに、と声を小さめに発する。
「ただ、重要なポジションを担っていたことも否定できない。だって、殺されはしなかったもの。いや、それも違うかもしれないわね。刑務所がいちばん安全と考えてここに来たのかもしれない……いくらなんでも獄中死は不自然だし、アラン・ウーの立場を考えれば、マスコミが騒がないはずないものね。なにせ、アメージング・レースの司会進行役なのだから」
 レースが中止になっただけでも大事なのである。それがさらに不審死となれば、世論も黙っちゃいない。シンガポール警察と星龍のつながりなど、白日のもとに晒されてはまずいものさえ出てくる可能性もある。
 ――アルの判断は正しかった。
「それでね、私達はアラン・ウーと何度かコンタクトを試みてるのよ。もちろん、秘密裏にね。そうして、囮捜査の一環で、今回のアメージング・レースの開催を利用しようとした……」
 それで、星龍に関連する者だけがあんなにも集まったのである。
 すべてはわからない。けれど、絡まった謎が解けていくような、そんな手ごたえが確かにあった。
「最近になってアラン・ウーとは連絡がとれなくなっていたわ。久々に会ったら、あの不自然な反応でしょう。何かがそこには、絶対にある……」
 スネイナはそういって、ペンダント(ナイロン袋に入れられている)を掲げた。
「これは、アラン・ウーからの、無言のメッセージ。救いのメッセージよ。あなたはこれと同じものを持っている。そして、あなたの出身はおそらく、日本国。先ほどのシルヴィアさんとの会話もこっそり聞かせてもらっていたもの。セイジという名前、乗っていた飛行機。それらすべてをあわせると、そうなる」
「このペンダントはでも、アルのとはまったく別物で……たまたま似ていただけで……」
「いいえ、たまたまじゃないの。同じ作り手だ作ったアクセサリ。有名なブランドじゃないし、手製の無名の職人が作ったもの……アラン・ウーは必死の捜査で、インターネットを利用してようやくこれを作った職人の店を見つけ出したわ。そして、その店のある場所こそが……」
 それは一体、と尋ねようとして、スネイナは黙った。
「これ以上は今は言わない。ただ、それは持っていきなさい。証拠物件というほどのものでもなく、単なる没収物だから、私の権限で何とかなるわ。それにここにあると、逆に具合が悪いしね」
 俺は無言でうなづき、ポケットにそれを入れた。
「あの……」
 質問を述べようとしたとき、だった。
 扉が開き、ひとりの男が入ってくる。
「フィリップ・コーハン……! まだ時間に早いわよ」
 金髪碧眼で後ろでまとめたロングヘアが特徴的な、落ち着いた雰囲気を持った男だった。
「すみません。僕ちょっと早く来てしまったもので。おや、君は?」 俺のほうを見て、目を細める。「コリン・ロウです」
 深くは語らなかった。
「そうか、僕はフィリップ・コーハン。みんなにはフィルって呼ばれているよ。君もアルの事情聴取に呼ばれたのだろう。僕はアルの親友なんだ。今回の件はすごく残念に思っているよ。君はアルとどういう関係だい?」
 聞いてもいないのに全て説明してくれた。
 しかし、俺はこのフィルという男を知らない。面会室でのアルのこともある。下手にここで情報を出すのはよくないような気がした。
「いや、ちょっと……」
 言った瞬間だった。
 突然、甘いものが欲しくなってきた。それは、スネイナやディンプルもそうだったのか、どこかそわそわし始めた。
「こ、紅茶。砂糖さっぷりのもの入れてくるわ」
 不自然な様子でディンプルが給湯室へ向かう。
 なんだ、この喉の渇きは……同時に、胸に痛みを覚える。あまりの激痛だったので、そこを見てみると、何かの痣のようなものが出ていた。何かの病気だろうか。
 俺は慌てて、その場を去ることにした。
「くっ、きょ、今日は帰ります。またきます……」
 それだけ言い残し、部屋を出た。スネイナもディンプルも、フィルも何も言わなかった。
 何が起こったのかわからないまま、俺は一階に降りる。玄関脇の自販機で糖分の多そうなスポーツ飲料を買い、一気に飲み干す。まだ、足りない。そう思って、数本買い込み、警察署を後にし、気分が悪いまま、サカモトの待つロワへと戻った。 サカモトとシルヴィアが心配そうに声をかけるが、「今は気分が悪い」と言うと、「休めるところに行きましょう」と、サカモトは車を出してくれた。
 窓の外には気づけば、雨が降っていた。
 ワイパーが水滴をはじきながら、シンガポールの市外を走る。サカモトが何処へ向かっているかわからなかったが、シルヴィアがナビを務めている様子だった。俺は悪いが、車内で眠らせてもらうことにした。
 そして、意識が闇へと沈んでいった――。

 *

「着きましたよ、コリンさん」
 シルヴィアの声で目が覚めた。いつの間にか車は、どこかへ到着していたらしい。
 言われるがままに降りると、目の前には日本風の雰囲気の旅館があった。
「ここは、私の知り合いの日本人のがやっているところでねえ。ここがいちばん安全だと思うわ……そう。星龍でもまさかここだとは思わないわ」
 シルヴィアはそう言って、鋭く目を輝かせる。俺はその様子から、普通ではない雰囲気を嗅ぎ取った。
「あ、あなたは……」
「私は日本からシンガポールに向かう途中の飛行機であの事故にあってから、色々と調べたわ。そのなかで、星龍という組織のことも知っていった。別にね、星龍の手にかかって愛する夫が亡くなったわけではないのよ。それでも、私は何かをしなきゃ、何か探さなきゃ、ずっとそう思い続けて生きてきた。これは、一種の呪いね」
 説明になっていないようなことをシルヴィアは言った。どうしようか悩んでいるところを、俺の表情から読み取ったのだろう、シルヴィアは微笑んだ。
「ごめんなさいね。要するに、いつしか私は星龍の調査の面で国際警察のお手伝いをするようになったのよ。まさか、星龍も私のような老いぼれが捜査の一員だなんて思わないでしょう。そして、私たちは、星龍という組織を語る上では避けては通れないキーワードが日本にあることを知ったわ。そう、日本の小さな町こそ、星龍の原点とも言えるの」
 だからか、と俺は納得した。
 だからこその日本旅館である。普通、そこまで気づいている人間が、日本旅館なんていう目立つものに泊まるわけがない。もっと小さな、古びた安っぽいビジネスホテルのほうが隠れ蓑として相応しい。普通ならばそう考える。だからこそ、ここは灯台もと暗し、というところだった。
「まあ、詳しくは明日、スネイナさんたちに聞くといいわ。この旅館は広くてね。今朝、レースの会場にいたメンバーは、みんな星龍と何らかのかかわりがあると考えて、いったんここに隠れてもらっているのよ」
 そのときだった。
 旅館の扉が開き、ひとりの日本人男性が出て来た。旅館の人か、と思ったが違うらしい。俺たちのほうを一直線に目指してやってくる。一歩間違えば、おかっぱ頭のような髪型をした男は足を止めると、俺の顔を見て頭を下げた。
「はじめまして。私はマツダ・メグルと申します。ブレットの執事にございます」
 すごく丁寧で、いかにも日本人然としていた。
 そんなメグルに、玄関から呼びかける声がする。
「挨拶はいいんだよ、メグル君! はやくコリンを中に案内して! エイドリアンのところへ!」
 ブレットは、エイドリアンの名前を出した。すぐにメグルは「こちらへ」と俺をエスコートし始める。何か、嫌な予感がした。不安が胸の中を満たしていく。
 案内されるがままに玄関の敷居をまたぎ、日本と同じように履物を脱ぐ。そして、裸足にあって、廊下を歩く。通された先は、広い畳張りの部屋で、みんなの囲む中、エイドリアンが日本の布団にくるまって横になっていた。何やらうなされている様子だった。
「エイドリアン!」
 叫び、俺は駆け寄った。
 エイドリアンは俺の声を聞くと、薄く目を開き、大丈夫というふうに微笑む。
「どうしたんだ……うなされていたのか」
「ああ……なんだか怖いところにいたんだよ……」
「怖いところ?」
「……研究所のようなところで、巨大フラスコの中に誰かいるんだ。赤ん坊なんだ……産声をあげた瞬間、地面が震えて、赤い光みたいなものに包まれて……それから、フラスコが爆発して……」
 何を言っているのかよくわからなかった。支離滅裂なことをうわ言のようにエイドリアンは繰り返す。
 俺は、エイドリアンの手を握ってやり、もういいんだ、と笑ってみせた。エイドリアンは少し安心したような表情を見せて、そしてまた目を瞑った。
「さっきまで誰が起こしても起きなかったのに」
 そう言った女性は――ポーラだった。
 どこか鋭い刃物のような印象が、彼女にはあった。
「よほど、キミのことが大切みたいだね」
 そして、微笑む。近寄ってくる。耳に口を寄せ、呟くように言う。
「エイドリアンのことを思うのなら、ウチとシルヴィアさんの話を聞いて」
 そう言って、部屋を出て行った。
 気づいたが、ここは男性部屋であるらしい。
 俺はひとまず、腰を下ろし、周囲を見渡した。クインシーたちもいる。みんな心配そうにエイドリアンを見ていた。今日一日のことを思い出す。朝起きてから遅刻しそうで慌てたこと。屋台で食べたこと。それから、レース会場についてからのこと……たくさん、ありすぎた。
 何より、レースが中止になったこと。エイドリアンはそれにえらく憤慨していた。
 そうか。俺のことを思ってくれて……。
 エイドリアンは常に、俺のことを気にかけてくれていた。思いやってくれた。ここまで導いてくれた。俺は、今回のレースで自分のルーツに近づけた。これは、エイドリアンのお蔭以外の何物でもない。
 シルヴィアさん。それから今ひとつ謎なポーラ。あと、国際警察のスネイナとディンプル。ここから先は彼女達の力があれば、俺は俺の秘密に気づくことができる。彼女達は星龍にこだわっているが、俺にとってはどうでもいい。どちらかというと、俺は自分のことを知りたい。ただ、それを知る上で調べていくことが彼女達の役に立つのであれば、利害は一致している。協力するべきだと思った。
 明日。改めて、スネイナとディンプルの話を聞いてみよう。
「ここからは、俺ひとりだ」
 口を割って出た言葉。それは、決意の表れだった。
 俺は胸元につけた二つのペンダントをギュッと握る。ここからは、俺のレースだ。今までありがとう。エイドリアン。帰ってくるまで待っていてくれよな。
 そう、心の中で呟き、俺は布団に横になった。誰も話しかけてこない。いや、話しかける余地を与えなかった。今ここで誰かと話してしまうと、気持ちが揺らいでしまいそうだから。ひとりでいこう、ただそれだけの決意を固めるのがこんなにも辛くて、こんなにも悲しいことだなんて、思ってもみなかった。
 俺のなかで、エイドリアンの存在があまりにも当たり前で、あまりにも大きなものになっていたんだ、と再認識した瞬間だった。
 けれど、振り切る。これは俺のレースだから――。

 翌朝、誰も目を覚まさないうちに俺はそっと部屋を抜け出した。
 ほぼ雑魚寝に近い男部屋の隅でエイドリアンは静かな寝息を立てている。どうやらもう大丈夫なようだった。ふと、その隣にいる小さな影を見つけた。
 クインシー、それからユージーン。二人は仲良く並んで眠っていた。
 そうだった……二人の誕生日は来月だっけ。バースデーケーキを作ってあげる約束してたな……。それでも、まだ小さな二人との約束を反故にしてでも、俺は日本に行きたかった。きっと、今しかない。今を逃すと、もうチャンスが無いように思えた。それに、今生の別れでもない。きっと、二人も分ってくれるはずだ。都合のいい解釈をして、俺は強引に別れの悲しみを振り切った。
 ごめん、と胸中で呟く。
 そして、部屋を出た。
「遅かったね」
 すでに待っていたポーラに声をかけられた。
 部屋の外に、人の気配は一切なかったのに、この女はいったい――などと考えていると、ポーラはあっけらかんと笑った。
「ウチはスパイだから」
 そう微笑む。何か裏のあるような、けれどもやっぱりないような、掴みどころのない笑みだった。
 ポーラに誘導されて玄関に向かい、旅館のスタッフから靴を受け取る。履いて始めて、ちょっと安堵した。どうにも素足で歩く、というのは落ち着かない。
「ジャパニーズスタイルですよ。それに慣れなきゃ、あなたはこれから先やっていけませんよ」
 玄関の扉を開いたのはシルヴィアさんだった。すでに車もスタンバイしており、サカモトが背筋を伸ばして立っている。サカモトの主が誰かわかんなくなってんな、と内心突っ込みを入れるが、これは彼個人的な好意でやってくれたのだという。俺は先ほどの突っ込みをかき消し、心の中で謝罪した。
 こうして、俺とポーラ、シルヴィアを乗せて、サカモトは車を発進させた。
 向かった先は、空港に程近い、小さな喫茶店だった。「この車は目立ちますので、私は少しこのあたりを周っておきます」 言うや否や、サカモトはウインドウを閉め、走り去っていった。
「さ、行きましょう」
 シルヴィアさんに案内されて、俺は喫茶店のなかに入った。
 喫茶店そのものはたいした特徴もない、小汚い店だった。その奥の、窓から離れた壁際の席に見慣れた女性警官はいた。(とはいえ、私服だが)
「やっぱり来たわね、コリン・ロウ」
 開口一番、スネイナ。
「今日はひとりなんだな」
 言うと、スネイナは微笑んだ。
「いつもディンプルと二人でいなくなると怪しいでしょう。あなたたちに早朝から出てきてもらったのは、こっそり会うためよ。このあと、私は寝過ごして遅刻して社長出勤する手はずになっているの」
 そう言って、「何飲む?」と促した。
 俺はめんどくさかったので、スネイナと同じものを、と言っておいた。シルヴィアとポーラは何かしら選んで注文していた。
「まあ、言いたいこと、聞きたいことはいっぱいありそうね、コリン・ロウ」
 コーヒーが机の上に並べられて、まずはそれを一口含んだ。苦い。俺は砂糖を足した。
「コホン。じゃあ、いい? 聞きたいことがあっても、しばらくは黙って聞いていてもらえないかしら。質問は最後に聞くわ」
 そして、シルヴィアとポーラの顔を順番に眺める。二人とも異論はなさそうだったので、俺も無言で頷いた。
「何から話そうかしら……シルヴィアさんは、飛行機事故で夫を失って以来、単身、ほんとささやかな調査だけど、星龍のことを調べていたの。とはいっても、個人にできることなんてたかだか知れていたのだけど、私はそれを知って、彼女には色々と国際警察としての捜査を個人的に手伝ってもらっているの。正式な要請ではないけれど、それでも彼女は好意的に受けてくれている」
 シルヴィアさんは微笑み、頷いた。
 この話は、昨日、日本式旅館でも聞いていた。人は何かを失ったときに、きっと何かしないと気になって仕方なくなる生き物なのだ。何かを失ったわけではない、物心をつく前から両親というものを失っていた俺でも、今こうやって自分の失われたルーツを探そうと躍起になっているのだから、シルヴィアさんの気持ちの一片でもわかるような気がした。
「そして、そちらのポーラ。彼女は、元々は星龍の一員だった。まあ、警察やマスコミの内情を探るスパイみたいなものだったけど、色々あってね。私たちの方につくことになったの。今回のレースもリスト渡して色々と調べてくれる予定だったんだけど……」
 そういわれて、俺は改めてポーラを見つめた。
 この女だけは、どうにも胡散臭い。しかし、それは元来、彼女の性質がスパイだったというところに起因するのかもしれない。しかし、そういえば――広場でポーラが言っていたことを思い出した。
『ごめんなさい! レースが中止になったのは、ウチのせいなんです!』
『違うの! ウチはレースのことは全部知ってるの。レースが中止になった原因も……』
『このレースに星龍(シンロン)が絡んでるから』
 星龍の逆スパイになったという、説明を差し引いても、レースが中止になった理由がわからない。
 レースが中止になったのは、アルとアニキの喧嘩のせいじゃないのか?
「ウチとアランの関係、かな」
 ポーラはそう言うと、少し目を伏せた。
「アランはウチが女優をやっていて知り合ったの。最初はただの仕事での付き合いだった。けど、彼に色々と相談のってもらったりしてた。そのうち、おもしろい話や、トモダチのことも話してくれるようになって、だんだん、彼のトモダチ想いな優しいところとか、色々と知っていくうちに、ウチは自分自身の汚い部分が気になってきて……」
「汚い部分?」
 聞くと、そう、と答える。
「アランは、キミはきれいだよ、って言ってくれて。それは女優にとって、最大の褒め言葉だった。けど、本当のウチはきれいなんかじゃない。だって、ウチは星龍のスパイで……直接悪いことしていなくても、それでも……。だから、ウチは悩んだの。汚いウチがアランなんかと話していていいのかって……」
 ポーラは泣いていた。
 どうやら彼女の言葉は本当であるように思えた。レース会場でとった態度。強がっているように見えた口調は、彼女の「演技」だったんだ。
 それに、彼女と一緒にレースに参加しようとしていた子(名前は度忘れした)は言っていた。
『――ボクはポーラみたいな優しい子が、レースを中止にするようなことはしないってわかってるし……』
 彼女の言葉は嘘偽りないだろう。ポーラは本来、きっと星龍なんかに居てはいけない子だった。
「そんなとき、だった。星龍が、“虹の欠片”を集めるために、レースというエサを巻いたのは。ウチはこの企画の司会進行にアランが関わるって聞いて、もっと悩んだ。悩んで悩んで、ごはんも食べられなくなって。そんなときに、アランはウチのそんな様子に気づいてくれて……ウチはすべてを打ち明けた……そうしたら、彼はすべてを止める、と言って出て行って、後はキミの知っている通り」
 ポーラの言葉は辻褄が合っていた。
 アルも時間がなくて、なりふり構っていられなかったのだろう。ちょうど、いいタイミングでアニキと揉めた。そこまで悪気はなかったが、有名人である自分が傷害事件を起こせば話題でレースは中止になる、とそう考えたのだろう。
 自分自身の今後のことも考えず、アルはそれを実行した。アルは、心からポーラのことを心配していたんだ。
「コリン・ロウ。悪いけど、私が補足を引き継ぐわね」
 スネイナだった。
「レースが中止になった事情は今ポーラが言ってくれた。ポーラ、私、あなたを上手いこと連携させたのは、そこのシルヴィアさん。あと、サカモトさんは今回、想いもかけないところで動いてくれていたから、今後も手伝ってもらえるかもしれないわね。彼もまた、あなたの飛行機事故に関係していたなんて、世の中は狭いわ。まるで誰かの書いた物語のようね……と、話がそれちゃったわ」
 スネイナが要約してくれて、俺はだいたいの疑問が解けた気になっていたが、ふと思い出した。
「そう、あとひとつ。“虹の欠片”よ」
 そうだ。それだ。 俺は思わず、胸のペンダントを触ってしまう。虹、という単語に反応したのだった。このペンダントの石は乳白色をしているが、角度によっては光を反射して、七色に見えるのだ。
「“虹の欠片”とは、特殊な力を持ってしまった“人外”のこと……。そう。星龍の人体実験のせいでね」
「じ、じんたいじっけん!?」
 スネイナはとんでもないことを言い始めた。バカかこいつ。
「最後まで聞いて。ここからはかなりオカルトでミステリーな話になるのは、私もわかっているの。あなたがどう受け取ろうと構わないから、ひとまず聞いて。聞くだけならタダでしょ?」
 そう言って微笑んだ。なかなかお茶目だった。
「星龍は、今を遡ること55年前……とある鉱石を発見した。その鉱石は、人の脳のうち開発されていない領域を活性化させ、通常できないようなことをさせるの。よく第六感だとか言われるわね」
 それってつまり、エドガー・ケイシーやユリ・ゲラーみたいな「超能力」のことだろうか。
「超能力と思ってくれて構わない。要は星龍はそういった人間を作ろうと、試験管で培養した人工的に生み出した人体を活用して様々な実験を施した。それらは55年前の技術にもかかわらず成功したわ。詳しくは私も文献でしか知らないけど、戦争の最前線で活躍する“戦士”を作ろうとしたらしいわ」
 俺は、昨日エイドリアンが教えてくれた夢の内容を思い出したが、まさか、と打ち消した。馬鹿げている。
「記録はほとんど末梢されているけど、その実験があまりに危険だということで一旦凍結されたらしいの。そして、30年ほど前――また、再開された。それは人造人間を作るのではなくて、もうちょっと制御のできる超能力を扱える人間を作ろうって計画だった。まあ、なんで私がこんな話をしたかなんだけど、ここまで言ったらわかるわね? 関係ない話なんてしないし。超能力を使う人間は通常の人間の何倍何十倍も頭を使う。血糖値が異様に変動し、甘いものがほしくなる。ほら、経験ない?」
 そう言うと。スネイナはおもむろに胸をはだけた。この痴女! と叫びかけたが、俺はそのブラの上あたり白い素肌に不思議な痣があるのに気づいた。
「これは、“虹の欠片”と呼ばれる超能力者のタマゴである証。あなたもできたでしょ。条件はわからないけど、色んな条件が重なると目覚めるみたい。あのとき、甘いものが欲しくなったでしょう?」
 昨日の警察署の一件を言っているようだった。
 確かに俺はあのとき、無性に甘いものがほしくなった。だから、スポーツドリンクを買ってしこたま飲んだ。糖分と水分補給の出来る、スポーツドリンクを。
「今はね。たいした力もないでしょう。だけど、きっと、そのうち何か特殊なことができるようになる。私もあなたも、それから、少なくともあのレース会場に集まったメンバーはね。それ以外にもいるでしょうね。五十人? 百人? いえいえ、千人かしら? その数はわからない。私だけじゃなくて、星龍にもわかっていないわ。星龍はトップが交代した際の内部紛争で、一時期、組織が解体しかけたの。今でも中では派閥ができていて、過激派なんかは無意味な無差別テロなんかして力を誇示したがっている。内部では結構ややこしい状況になっているそうよ……だから、今がチャンス」
 スネイナはポーラを一瞥し、ポーラは頷く。
「だけどまあ、星龍はそれでも巨大な組織で、私たちがちょっとやそっと力をあわせた程度で敵う相手なんかじゃない。私たちは“虹の欠片”を集めて、星龍に対抗できる力をつけるの。そのためには、私たちの力のルーツを知らなきゃいけない」
「ルーツはどこにある」
 思わず、食いついてしまった。
「……白虹石。一般には流通していない貴重なこの鉱石は、はるか昔、宇宙から飛来した隕石の破片だそうよ。自然界の状態では、それは人の脳に微力ながら影響を与える。日本の小さな町“桃ヶ崎”でのみ発掘される希少な鉱石……今はそれは桃ヶ崎に本社を置く、星龍の作った株式会社のみ発掘できるよう、うまく日本の法律とシステムづけられている」
 なぜか、汗が頬を伝った。胸元に流れた汗を拭おうとして、ペンダントに触れた。ペンダントの隣に、不思議な痣ができているのに、改めて気づいた。何だろう、これは?
「白虹石。あなたが、つけているペンダントにはめこまれている鉱石が、それね」
 瞬間、すべてが繋がった。
 まわりくどい説明もすべて、一瞬にして許せてしまうほどの衝撃を持った一言だった。
「そのペンダントは、シンガポールなんかじゃ作れない。それは、日本の桃ヶ崎で作られたものよ」
 そして、ポーラが口を挟む。
「ウチみたいな末端だと、白虹石の詳しい発掘経路はわからなかったの。でも、アランのお陰でそれがわかった。アランは、あなたに、あなたに助けて欲しいのよ!」
 ポーラはそういうと、お願い、と瞳を潤ませた。その目からは女優としての演技はまったく感じ取れなかった。きっとそれは本心。
「……さて、コリン・ロウ。聞いてもらったとおりだわ。ここからが本題。私はそのペンダントにまつわる情報をまだ持っている。あなたが、“虹の欠片”や星龍のことをすべて信じてくれたか、信じてくれていないか。どちらでもいいわ。あなたはあなたのご両親を探しに行けばいい。ただ、そのついでに、と言ったら変だけれど、星龍についても調べてきてほしいの。この条件が飲めるなら、私はあなたに全てを教えます」
 静寂が支配した。
 俺は意を決して、ひとつの質問を投げかけた。
「スネイナ。あんたは、星龍とどういう関係だ?」
「両親を殺された。ただ、それだけのことよ」
 スネイナがシンガポールで、国際警察なんていう危険なポジションについている理由がわかった。彼女は、闘っていたのだ。女性の身でありながら、強大な敵と。必死に。
 だから、俺は、たとえこの話が幼稚でもちょっとくらい協力してやりたい。そう思った。それに、スネイナは俺にメリットも残してくれている。それは彼女の優しさだろう。
「あんたたちに、協力する」
 俺の言葉に、スネイナは一瞬泣きそうな表情を見せ、普段の強い女性警官の顔に慌てて戻した。
「ペンダントは桃ヶ崎の小さなアクセサリーショップで作られたもの。個人経営のものよ。今もあるかはわからないけど、当時の資料よ」
 そう言って、机の上に数枚の紙を差し出した。そこには地図と、それから店の名前が載っていた。
「あなたの持つペンダントは……あなたの親戚が作ったものだそうよ」
 驚く俺に、今まで黙っていたシルヴィアが切り出した。
「本当のことよ。あの飛行機事故のとき、あまりにきれいなペンダントだったから私は聞いたのよ。あなたを抱っこしていた女性に。彼女はこう言ったわ。これは、この子の親戚が作ったものなんです……と、そうはっきりね。けれど、彼女は死んでしまったし、あなたとは会えないでいたし、それを伝えることはできないでいた。私はようやく、あなたにこれを伝えることができたわ!」
 シルヴィアさんは涙を溢し、喜んでいた。
 俺はそれを見て、涙を溢しそうになる。なぜか、ポーラが泣いていた。彼女もまた、優しい子なのだろう。スネイナさんも感極まりそうになるが、強いところを見せようと、声をあげる。
「とにかく、あなたはこれで桃ヶ崎に行くことに決まったの。あの街は、星龍の会社のせいもあって、外国人が人口の割に異様に多い。まあ、港も近いからなのだけど、とにかくあなたはそれほど目立たないわ。星龍にあなたが顔が割れているっていうわけじゃないしね」
「ウチが知る限りじゃ、キミの相方は顔まで知られているけど、キミはレースのエントリーシートで協力者としか記載されていないから、名前しか知らないはずだよ」
 そうなのだ。レースにエントリーしたのはエイドリアンである。連中はエイドリアンの情報は深くまで掴んでいるが、スラムで生活していた経歴のある俺の情報までは掴めていないんだろう。
 しかし、名前が割れているのは厄介だな……。
「名前も気にしなくてだいじょぶ」
 ポーラはブイサインを出す。
「え、パスポートとかいるだろ?」
「ふふ。キミが赤ん坊の頃にやったのと、逆の経路でやればいいんだよ」
 そうか――俺と一緒に乗っていたは身元が割れなかった。
「星龍の裏世界の力をちょちょいと利用させてもらうの。星龍の一員であるウチには、それができる。できないこともあるけど、それくらいなら、なんとか」
 ポーラを信じていいものか、と思案し、もうこの際疑っても仕方ないと開き直った。
 俺には彼女がレース会場で見せた涙や、今この場で見せた涙まで偽物だとは思えなかった。それにアルが気を許したような相手であれば、きっと間違いない。
 快諾し、俺たちはその場を後にした。
 俺は数日を空港近くのホテルに隠れ、ポーラの手続きが終るのを待ち、シルヴィアがこっそり教えてくれたタイミングでシンガポール空港を出発した。目指すは日本である。
 日本。エイドリアンが好きな国、という認識くらいしかなかった。俺もその影響で日本がちょっと好きになっていた。けど、そんなものじゃなかった。日本こそが、俺の生まれた国だった。
 コリン・ロウ。青二。俺の二つの名前。
 コリン・ロウの故郷はどこか、と問われたら、俺は間違いなくシンガポールだと答える。家族は誰か、と問われたら、あるいはエイドリアンと答えるかもしれない。
 しかし、青二の故郷は違う。日本だ。そして、家族はどこかに生きているかもしれない。漠然と、俺は自分はハーフだと考えた。この顔は日本人にはありえないし、桃ヶ崎には外国人も多いとスネイナは言っていた。
 ヒントはいくつもある。しかし、答えはひとつしかない。
 その答えに辿り着けるかどうかが、コリン・ロウの物語だ。星龍やそのほかレースも全てただのオマケでいかない。コリン・ロウから青二に贈る、ただひとつの物語は、父と母に出会うために描いていく。
 そこに至る道筋は見つけた。あとはそれをひたすら辿るだけだった。
 俺は必ずそれをやり遂げてみせる。そして、エイドリアンと笑顔で再会する。
 ただそれだけを考え、俺はシンガポールの街を飛行機の窓から見下ろしていた。
 日本は、遠い。俺は目を閉じ、しばし眠ることにした。

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