『箱庭の少年少女』――やがて、世界へ羽ばたこう。

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第2話


 ――地球、日本国、東京都。

「里佳ちゃん。おはよ」
「おはよ〜、佐奈」
 里佳は、瞼をこすりながらドアを開ける。そして、踏んでしまった靴の踵を直そうと、均整の取れた長身を傾け、指先を靴の隙間に差し入れる。しかし――
「ねむいねえ、ととっ」
 もろにバランスを崩して、小柄な少女の方向に倒れこむ。
「里佳ちゃん、あぶないっ! 」
 精一杯両腕を伸ばして、身体を支える佐奈の奮闘によって、縺れ合った形で転倒という惨事は辛うじて免れることができた。
「ふー。ねぼけないでよ、里佳ちゃんっ……て、何してるの?」
 微かな膨らみをおびた胸元に、かたちの良い顔を埋めたまま、里佳は全く動かない。
 朝っぱらからあんまりな行為に、精一杯きつい目つきで睨み付けてやると、ようやく面をあげる。
「うーん。佐奈っていい匂いがする」
 くんかくんかと、小鼻をならしながら、悪戯っぽい笑みを浮かべて見上げる。
「里佳ちゃんのヘンタイ」
「ヘンタイだもの」
 すっかりと開き直った親友に、頬を膨らませてみせるが、あまり通じない。
「早く行かないと、遅れちゃうよ〜」
「日曜日に、学校なんか行きたくないけどね」
「文句いわないの!」
「へいへい」
 ようやく胸から埋めた顔を離すと、里佳は大きなバッグを肩にかけた。

 暗灰色の曇が低く上空を覆う中、二人の高校生は学校へと続く路を歩いていく。
「昨日、本を読んだ」
 クラスメイトの恋話で一通り盛り上がった後、里佳は何気ない口調で呟いた。
「何を?」
「異世界に行っちゃうファンタジー小説」
「高専に通う私たちにはある意味ぴったりで、ある意味あわない話だね」
 佐奈の言葉の意味をはかりかねたように里佳は首を傾げる。
「魔法とは反対に位置する機械をいじる私たちには、ファンタジーは似合わないってことと……」
 ああ、と里佳は頷いた。
「オタク率が高い学校だから、お似合いってことね」
「そういうこと。で、その小説がどうしたの?」
 佐奈は興味津々といった視線を、頭ひとつ高い少女の顔に投げかける。
「この地球は、不思議な門で別の世界と繋がっているんだって。ほら、昔から『神隠し』に遭う子がいるでしょ」
「うん」
 頬を撫でる風に湿り気を感じながら、続ける。
「実は、『神隠し』にあった子供たちは、何らかの力によって門から異世界に放り込まれていた」
「ほんと!?」
 佐奈の声と表情は、なぜか期待に膨らんでいる。
「だから、小説の話だって。でね。その小説の中では、私たちの住むこの地球の武器、銃とか戦車とかが大活躍するの。それって燃えるじゃん」
「あはっ、里佳ちゃんらしいっ」
「ハングライダーですら未知のもので、その世界の人々は『神の鳥だ』とか何とか言って崇めるのよ」
「それなら、航空を専門にしている私たちも神だね。神かー神様にはなれなくてもいいけど、人のためになるならそういう世界に行ってみたいなあ」
「この世界でも役に立てることあるじゃん」
「んー。それもそうなんだけどね……やっぱ何かほら、ロマンチック」
「あんた、古い言葉使うね」
 長身の少女は苦笑いを浮かべて言った。
「そんな世界があったら行きたいな。就職活動とかないしね」
「まあね。でも、仕事はきっとどこの世界にもあるから何らかの勉強はしないといけないだろうけど」
 休日であるはずなのに、忙しそうにビルの谷間を行き交う人々を眺めながら、里佳は小さく呟いた。
 何かが起こる予感は、この時点では全くしなかった。

「お疲れ様〜」
 小さな小型機の整備が終わり、授業の終わりを告げるベルが鳴り、雑談をする学生達を傍目に、佐奈は一目散に水場に走った。
「ふう……みず、みずが欲しいよ〜」
 手首で蛇口を捻ると、水流が勢いよく迸る。テールの一つを後ろに退かせながら、顔を傾けると、ふっくらとした頬を伝った冷水が、少女の喉を潤していく。
「んぐっ、んぐっ……」
 何度も喉を上下に鳴らしながら、水分を補給すると、疲れきった身体に生気が蘇る。
「ふー、生き返った」
 暫くの間、無我夢中で口を動かしていたが、お腹が随分と膨れているのに気づいて、顔を赤らめながら、蛇口から離れる。
(水、飲むだけだから、大丈夫だよね)
 強引に自分を納得させると、顔を洗って、汗にまみれた首筋にも冷水を含ませたタオルをあてる。
(さあて、里佳と帰るか)
 さっぱりした気分になって顔を上げると、やや遠くの廊下を歩いている里佳の姿に気づく。声を掛けようとした時。
「立沢先輩」
 髪を短く切りそろえていて化粧気は全然ないが、可愛らしい顔立ちの下級生が里佳を呼んでいた。こういう場面は普通、男が相手だろうに、なぜか里佳が相手にするのはいつも女の子だ。
 タイミングを失った佐奈は、手洗い場の陰に隠れた。
「ん、なあに」
「あの、その……家でつくったんです。よければ食べてください」
 鞄から、大事そうにしまっていた小さな紙袋を取り出て、震える指を抑えながら、里佳に手渡す。
「中、見てもいい?」
 軽い口調で問い直す。下級生は顔を真っ赤にしながら小さく頷く。
「うわあ、ミルフィーユだ。嬉しいな」
「どうぞ、ご自宅で召し上がってください」
 下級生は、嬉しそうに受け取る里佳の顔を見て、安堵の表情を浮かべている。
「うん。ありがとう。また、手が空いていたら頼むよ」
 里佳は手を伸ばし、下級生の身体をそっと抱き寄せる。
「あっ……」
 軽い抱擁を交わすシーンが、佐奈の瞳に映った。
(里佳ちゃんのばか)
 着替えを素早く済ませた佐奈は、里佳を待たずに、部室から逃げるように飛び出す。
(そりゃ、里佳は背高いし、カッコいいし、おまけに誰にも優しいから、ファンもおおいよーだ)
 行き交う生徒たちが、少女の剣幕に押されて、左右に割れるように退く。
「佐奈、待ってよ。何怒ってるの?」
 遠くから追いかけてくる長身の少女が、視界の端に映るが、立ち止まらない。
(どーせ、私はやきもち焼きですよ)
 佐奈は、追っ手から逃れるように走るが、長い脚と高い運動能力を持った少女に、あっという間に追いつかれてしまう。
「離して!」
 掴まれた手首を振り払おうと身体を捻るが、強い力で抑え込まれる。
「話を聞いてよ」
 里佳は困惑しきった表情で、佐奈を見つめた。
(そんな顔をしないでよ…… )
 佐奈は深い溜息をついて言った。
「私、里佳ちゃんが、さっきお菓子もらうとこ見ていた」
「あっ」
 里佳が小さく口を開ける。
「わがままって分かっているよ。でもね。里佳ちゃんが、そうやって誰かと親しげにしているのは嫌なの」
「ごめん。佐奈」
 しょんぼりとうなだれながら、あやまる。
「なんでもするから、機嫌直してよ」
 しかし、縋るような口調が気に入らなかったのか、捻くれてしまった気持ちが、佐奈の口から思いもかけない言葉を出してしまう。
「じゃあ、キスして」
 自分の言葉なのに動悸が始まり、胸が痛い。耳の裏まで真っ赤になっている。
「本当に、それでいいの」
「うん」
 反射的に、佐奈は頷いた。
「分かった」
 里佳は頷くと、小柄な少女の手を握る。そして、制服の裾を翻して歩き出す。強く握られた佐奈の指が鈍く痛んだ。
「ちょ、里佳ちゃん。どこいくの!」
 抗議の声を無視して廊下を進み、授業が終わり誰も使う予定がない、整備室の扉を開けて、すぐに閉める。そして、里佳は少女に向き直って言った。
「佐奈、今からキスするから」
「ちょっと待ってよ。里佳ちゃん」
 いつもの余裕のある表情が消えた里佳が怖くなって、後ろに下がろうとするが、すぐに白い壁にぶつかって、背筋に小さな痛みがはしる。
「私、昔から佐奈のことが好きなの」
 華奢な両肩を荒々しく掴まれて、形の整った顔が間近に迫る。
(心の準備が、全然できてないよ)
 両膝が細かく震える。里佳のことが嫌いなはずがないのに、どうしても視線を逸らしてしまう。
「佐奈は私のこと、嫌いなの?」
 里佳は、哀しそうな表情を浮かべて言った。
「そんなこと、ないよ」
 思ったように言葉が出ない。もどかしい想いに、胸が掻きむしられているようで、痛い。
「じゃあ、なんで拒むの。さっきの言葉は単なる冗談?」
「里佳……違うよ」
 どうしてこんなことになっちゃったのだろう。衝動的に発した言葉が思いもかけない結果に繋がってしまい、動揺を抑える事ができない。
「もう我慢できない」
 呟くように言った里佳の唇が触れる瞬間――何も無いはずの空間から、突如として風が巻き起こる。
「えっ」
 反射的に視線を窓に移すが、鍵は閉まっている。
 里佳も驚き、塞いだ唇を離して、大きく首を振って周囲を見回す。
 二人の周囲を渦巻くように流れる風が次第に強まり、制服のスカートが捲れあがる。
「きゃ」
 佐奈は短い悲鳴をあげて、先程まで逃れようとした少女に抱きつく。二人はお互いを守るように身体を寄せ合うが、渦巻くように吹き付ける風は、更に激しく荒れ狂う。
 そして、同時に生まれた白い靄が、身体を覆い隠す。
「きゃあああああ!」
 引き裂くような絶叫を残して、少女達は生まれ育った世界から消える。
 一時間後、見回りの教師が整備室の扉を開けた時には、小型飛行機がただ並んでいるだけでそこに人の姿はなかった。

 *

 ……一方その頃。

 ――ファルネース、アトランテ大陸、国境、デーナスナイト。

 アナトリア連合とカンディア連合の境に、起伏にとんだ土地がある。その名を、デーナスナイト。
 本当に何もない土地で、山面にいくつもの洞窟がただ点在しているだけであり、この洞窟に関しても内部に危険な魔物がいるために誰も近づこうとしない。危険はあれど、益になるものはない。それがデーナスナイトだった。そのため、この地はどちらの連合にも所属することなく、ただお互いの干渉しない国境としてここに存在し続けていた。
 まさに権力の真空地帯である。山岳地帯という険しい地勢のため、ごくまれに猟をする者を除き、人が足を踏み入れることもほとんどない。
 アナトリアの出版業者が発行している地図の片隅には、デーナスナイトと小さく書かれている。古くは偉いマナ研究者の研究施設があったとも言われているが、何度かの調査の折にもそれが発見されることはなかった。

 無数にある洞窟のひとつ。最深部に作られた隠し扉。いや、隠そうとして隠れたものではない。単に長い年月のうちに埋もれてしまったのだろう。土壁の奥に何か金属のような扉を見つけ、一人の男がほくそ笑んでいた。男は洞窟には場違いな黒いタキシードを丁寧に着込んでおり、その髪は前から後ろへと整髪料でしっかりと固められている。
「クオラが世界各地から集めた古文書を頼りについにここまで見つけたが……開門はどうすれば良いのか?」
 男の顔は松明に照らされているが、それでも青白さが目立った。
「はい。ノスフェラトゥ殿。我々カンディス連合の所有する古文書にその方法は載っております。しかし、場所まではわかりませんでした。やはり、貴方たち外の世界の情報量は生半可じゃないで、す、うぐぉ!」
 ノスフェラトゥと呼ばれた男の隣にいた男は、首をしめつけられ壁に押しつけられていた。
「馬鹿が。勘違いするなよ。外の世界がすごいのではない。我々クオラが偉大なのだ。それを履き違えるな」
「す、すびまぜん……」
 男が喉から声を絞り出すと、ノスフェラトゥは力を緩め男を解放した。
 咳き込む男に、ノスフェラトゥは扉を開けるように命じる。男は土壁に埋もれた、金属のような扉をしきりにいじっていたが、一箇所、でこぼこしたようなものを見つけ、そこを指先で叩いていく。すると、扉が振動音を立てて開いた。
「よくやった」
 ノスフェラトゥはそう言うと、奥へと向かう。
「ふむ……やはり、ここがそうか」
 扉の先に伸びる廊下の壁はこのファルネースには存在しないような材質で出来ていた。
 ノスフェラトゥの隣を歩く男は首をかしげた。
「かつてこの世界を恐怖の底へと陥れた、魔の存在……」
 歩きながらノスフェラトゥは恍惚とした表情で述べる。
「大魔王。その遺産がここにはいまだ多く残っている」
 そう言うと、ノスフェラトゥはいくつかある扉のひとつに入った。男も慌ててその後ろをついていく。
「これは……?」
 ノスフェラトゥは目の前の妙な箱を見て首を傾げる。
 言うやいなや、その装置に手をふれ、適当にいじっていたノスフェラトゥはすぐに興味を失ったように首を振った。
「これは、文官の仕事だな。私には性に合わん。他のに任せるしかあるまい」
「ですが、ノスフェラトゥ殿……お仲間はここに来れないのでは……」
「お前たちカンディアの連中と、それに加えて、クオラから何人かここに呼ぼう。そうすれば、研究は進むはずだ」
「えっ、この場所にノスフェラトゥ殿の他に来れる方がいらっしゃるのですか?」
 ノスフェラトゥは呆れたように肩をすくめた。
「君は馬鹿かね。この私を除いてアトランテ大陸と外を行き来する手段を持つ者は、確かに存在しないだろう」
「でしたら……」
「話を理解したまえ。行き来する手段はないだけで、来ることはできるのだよ。流刑されてきた者もいただろうし、難破してきた者もいただろう」
 カンディアの男は絶句した。
 それは即ち、故郷を捨てこの箱庭のようなアトランテに来いということに他ならないではないか。
「そ、そんな、慣れ親しんだ土地に二度と戻れないのですよ?」
「それほどまでに、我々クオラの目的は尊い。我々はこの世界を浄化するのだ。君たち、ヒュマンを嫌うカンディアの者なら理解してくれると思うのだがね?」
 ノスフェラトゥは興味を失ったと言わんばかりにその部屋を後にした。カンディアの男もその後に続く。
「他にもいくつか部屋があるな。このすべてに目を通した後、私は一度、本国へ渡り、クシュナ様にこの件を報告する。再度、クオラの者たちが渡航するまで、この地の守りはカンディアの者に任せたぞ」
「は、はい」
 カンディアの男は、ノスフェラトゥが本国へ戻る際の場面を想像して鳥肌が立った。
 このノスフェラトゥという男は想像を絶する存在なのだ。そしてそれは、クオラの研究の成果であるという。
「いいな? 貴様たちハーフは本来ならば駆逐される存在なのだ。しかし、お前たちカンディアの者はヒュマンを憎んでおり、私たちと目的や主義思想が同じだ。だから、手を結ぶ。いわば、特別な存在になれたと言えよう。その名誉、忘れることは許さんぞ」
「はい」
 返事をしながら、カンディアの男は自分たちの進むべき道はこれでいいのかと一瞬疑問に思った。
 しかし、それは我々の先祖代々の恨みを忘れることになる。アトランテの民は、ヒュマンのせいでこのような制限された人生を余儀なくされているのだ。
「……我、クオラと共に理を正し、世界を浄化する者なり」
 青白い顔に恍惚とした表情を浮かべ、そうノスフェラトゥはつぶやき、廊下を歩み始めた。その後を慌てて、カンディアの男が追いかける。
 その背後の部屋で、先ほどまでノスフェラトゥが触っていた機械が妙な音を立て始めたのに気づくものは誰もいなかった。


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