『Passage of StrayDog』――第一章『Stray Dog』

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第2話


 見開かれた眼は光を失い、失われた血によって肉は蒼白い。
「…………」
 男は何事かつぶやいた。
 だが降りしきる雨音に消され、無人の街路において、その言葉を聞きとった者はいない。男は物乞いの亡骸に歩み寄り、しゃがみこんで顔に手を伸ばそうとし――
 不意に、背後から烈迫の気合が雄叫びと化して近付いてきた。
「ほぉおおわちゃあああっ!!」
「!?」
 咄嗟に側方に身を投げ出すと、僅かに遅れて一瞬前まで頭があった場所を、猛烈な勢いで何かが飛び過ぎて行った。
 片膝を付けたまま、すぐに跳躍できる姿勢を維持しつつ、男は不意の襲撃者を視界に納める。襲撃者は行く手にあった住居の壁を、トンと軽ろやかに蹴ってこちらに向き直り、舞い落ちる木の葉のように、軽やかに着地した。
 そして大喝。
「そこな悪党め! 人が気持ち良く惰眠を貪っている時に、悲鳴を聞きつけて来てみれば、哀れな物乞い達を殺し、物を盗ろうとするなぞ言語道断、このワンが成敗してくれよう!」
 いきなり悪党と来た。
 明らかな敵意を漲らせ、こちらを睥睨しているワンと名乗った老人の服装に、男は初めて顔色を変えた。まるで中国の拳法家が着ているような、道着を纏った老人の姿に、思わず男は目を眇めたのだ。
 だが先に誤解を解くことを思い至ったのか、男は複雑な面持ちをしながら、低い声で一言一言をはっきり発音するように口を開いた。
「人違いだ。こいつを殺したのは――」
「かぁーっ! 体中に返り血を浴びておきながら何を言うか! そこの仏さんも貴様が殺したに違いない。殺生だけでなく虚言まで用いるとは腐れ果てた外道! もはや許さじ!!」
 まったく聞く耳を持たない。
 だがワンの指摘はあながち間違いではない。雨で薄れているとはいえ、男は怪物の血で体中を朱に染められている。先程の怪物との戦いを目撃していなければ、確かに男が二人の人間を殺したと見られても仕方がないかも知れない……思わず男は言葉に詰まった。

 この様子に得たりと相好を崩すと、ワンは身構えた。

「成敗っ!」
 不意に老人の姿が目前に現れた。
 大気を穿つ音が響くよりも速く、老人の両手はそれぞれが掌底と手刀を形作ると、男に叩き込まれる――デザートケープの一部が裂け飛ぶ。
 飛び離れた男は、地に足が着くよりも速く、背負っていたザックを放り捨てると、即座に身構えた。

 だが老人の追撃は続く。
 速く、長い一歩で瞬時に間合いを詰めると、男に防御をとらせる間も与えず鉄山靠(てつざんこう)を見舞ってきた。速度と重さを兼ね備えた一撃に男はたまらず踏鞴(たたら)を踏んで退がる。 だが倒れなかった。
 隙の無い構えを取りつつ、ワン老人は呟いた。
「ほう、ワシの三度の攻めに耐え凌ぐとは……お主、かなりの使い手じゃな?」
「……ジジイっ!」
 血が滲む左肩を押さえながら、男は憤怒の表情で悪罵を紡いだ。
 どうやら誤解を解く前に、一戦交える気になったようだ。男の目を見やり、ただの強盗でないことを見抜いたワンは鷹揚に問う。
「うむ、ただの物盗りにしては手強い。お主、名はなんという?」
「クザン!」
 名乗りをあげ、クザンは地を蹴り立ててワンに向かう。短く、それでいて力強く応じたクザンに対し、ワンも己が拳で応じる。いや――今度は脚も交えた本格的な連撃だ。しかもさらに重い。
 たちまち防戦に追いこまれるクザン。だがあまりの打撃に、じきに腕が強張って思うように動かなくなってしまった。
「それそれそれそれそれそれ、どうじゃどうじゃどうじゃあっ!?」
「ぐおっ!」
 呵責の無い打撃の嵐に、クザンはなす術も無く防戦を強いられていたが、ついに一撃が防御を掻い潜ってクザンの額を強打した。
「ぐっ――」
 苦鳴が途切れた。強かに腹部を蹴られ、クザンの身体は跳ね飛んだ。後方に在った住居――もとい、掘っ立て小屋の壁に背が減り込むほど激突した。
「ぐ……あぁ……」
 クザンの意識が遠のく。
 だがこんな事は今までに何度も有った。中東でも、南米でも、東欧でも――訓練中でさえもしょっちゅうだった。必死に意識を紡ぎ、なんとか立ち直らせる。ボヤけた視界を、頭を振ってはっきりさせようとしたとき――何かが大きく映った。

 ワンが繰り出した掌底だと脳が認識する前に、クザンの本能が体を突き動かす。咄嗟に膝を折り、身をかがめる――寸前まで頭部が有った場所を砲弾のような勢いでワンの腕が行き過ぎた。
 代わりにそれを受けた背後の掘建て小屋の壁が、文字通り木っ端微塵となった。
 ゾッと、冷たい戦慄が背筋を降りる。これ程の腕を持つ人間が居るとは! だが鍛えられたクザンの闘争本能は、常人なら昏倒している程のダメージも、恐怖すらも捻じ伏せ、右手は咄嗟にデザートケープの中に伸ばしていた。
 やはり“アレ”を使うしかあるまい――
 次の手を考え付くと、即座に行動に移す。
 手首のスナップを効かしナイフを投擲。ワンはスっと首をかしげただけでこれを避けたが、これも想定の範囲内だ。
 本命は既に右手の中に収まっている。
 ワンはそのままクザンに向かってこようとはせず、向きを変えて走り出し、道端に積まれていたガラクタに手を伸ばしている――
 デザートケープの裾が翻った時には、クザンの手がナイフを抜いた時よりもさらに速く、安全装置を解除した状態で“それ”を抜き出していた。
 閃光と共に鈍い炸裂音を響かせ、クザンの手中でキンバー・ウォリアー改――45口径(11.4mm)の半自動拳銃が跳ね踊る。
 照準、発砲――この動作を二度繰り返した。弾丸は、音速に近い速度で大気を裂いて飛翔――拳銃に装填されていたホーナディXTPホローポイント弾は、人体抑止力に優れており直撃すれば人間など軽くなぎ倒せる、強力な弾丸である。
 いかに素早くても、弾丸より速く動ける訳がない……しかし、甘かった。
 弾丸はワンの周囲で目まぐるしく動く“何か”によって弾かれ、獲物を仕留め損ねた虚しさを、金属の掠過音に乗せてどこかへ飛んでいってしまった。
「うっ!?」
 思いもよらぬ事態に、思わずクザンの喉から呻きが漏れる。弾丸を弾いた何かを手に、ワンがそれを鋭く突き出した。
「くっ!」
 何かがケープの裾を引き裂くのを感じつつ側方に体を投げ出して避け、地面を転がってさらなる追撃から身を守った。
 転がりつつも引き金を弾く。そこから上体を起こし、片膝を着いたまま今度は狙いを安定させて更に二連射を加えた。だがいかなる技を用いたのか、老人を貫くはずの必殺の弾丸は、全て弾道を狂わされあらぬ方角に逸れ飛んでいってしまった。
「どうじゃ、游泳飛竜の名は伊達ではなかろうて?」
 ワンはさも楽しげな笑みを浮かべつつ、手に持っていた“何か”を構えた。
「棒……だと?」
 老人の手中に収まった凶器の正体に、クザンは眉根を寄せていぶかしむ。それはただの鉄の棒だった。
 最前まで、そのままどこへと処分されるはずのガラクタが、今ではワンの手の中で強力極まりない武器となっている。不敵な笑みを浮かべたワンが言い放つ。
「今度はこちらの番じゃ。覚悟せいっ!」
 言葉の途中から、ワンの体は前に――クザンに向かって流れた。
「チィッ!」
 銃口を巡らせたが間に合わない。
 引き金を引くのをあきらめ、すぐに飛び退がっていなければ、直上から振り下ろされた棒に頭蓋を砕かれていただろう。牽制すべくさらに三発放ったがこれも棒に阻まれ、飛び道具さえも無効となった事を、クザンは思い知るはめになった。
 今やワンの棒は、暴風の如く荒れ狂い、触れた物は路傍の石や住居の壁をいわずして、無残に撃ち砕く凶器と化している。
 その対象は、クザンとて例外ではない。クザンはあらゆる方向から襲いかかる鉄棒を退き、跳び、屈み、体をよじって必死に避ける事に専念しなければならなかった。
 しかし、完全に避け切ることはできない。
 何割かの棒が掠める度にケープが細切れになり、四肢の肉が裂け、鮮血が舞った。不意に民家の壁が背についた――追い詰められてしまったのだ。辛うじて直撃を避け続けて来たが、ついに逃げ場所を失ってしまった。
 クザンの顔がさらに青ざめる。
 勝負を決するべく、ワンは裂迫の気合を発しながら、上段から鉄棒を振り下ろす。迫る一撃――とっさに左腕をかざして防ぐが、前腕は鈍い音を発てて折れた。
 クザンは激痛に顔を歪めながらも、拳銃のグリップをハンマーのように叩きつけるべく振り上げ、必死の抵抗を試みた。だが、そこまでだった。
 横殴りの一撃がクザンの顎の付け根を強打。
 世界がガクリと揺れ、自身の平衡感覚が無くなり――強烈な衝撃が、みぞおちを抜けた。
「ぐっ――がはぁっ!!」
 クザンは口から盛大に血塊を吐き出しつつ、住居――ボロ屋の壁をぶち抜き、ついでに反対側の壁に叩きつけられて、うつ伏せに倒れた。
「……やっと、くたばりおったか?」
 肩で息をしつつ、ワンは穴の開いた壁にまで足を運んで呟いた。
 あまりのしぶとさに、いつの間にかワンは相応の実力を出さざるを得なかったようだ。ワンが家に足を踏み入れると、壁際にへばりつく様にしていたそこの住人と思しき男性は、ワンの只ならぬ殺気を感じ取ったのか、短い悲鳴を上げて本来の出入り口とおぼしき、ボロ布を垂らしただけの玄関から飛び出していった。

 ワンは倒れ伏したままのクザンに目をやると、僅かに表情を変えた。
 生きている……ぴくぴくと、体の端々が僅かに痙攣しているのが確認できた。そして今度はワンの表情が、驚きと畏怖が入り混じった表情に転じた。クザンの右腕が伸び、手掛かりを探るように床の上を這い――やがて上体を起こすのに適度な位置を見つけたのか、グッと力を込めた。
 もはや自由に使えるのが片腕だけであることと、極度の疲弊のためかその動作は緩慢な上に、再び倒れそうな程危なっかしいものだった。
 それでもクザンは上半身を起こし、膝立ちの姿勢に持ち込んだ。
「むぅ……お主、何者なんじゃ……?」
 息を呑むワンの表情は、今や驚きの表情を隠しきれていない。
 再度打ち倒すべきか? それとも拳を収めるべきか? そう思案した瞬間、注意が逸れた隙をクザンの本能は見逃さなかった。
 生き残れ――何かが強く訴える。
 どうすれば良い――今まで通りだ、何も違いは無い。
 だが強すぎる――真っ向勝負では、だ。
 不意を突くか――持っているだろう、丁度良い物が。
 急速に意識が覚醒――クザンの双眸がカッと見開かれる。
 研ぎ澄まされた闘争本能に導かれるまま素早く右手が動き、腰のピストルベルトに取り付けてあったポーチから円柱形の物体を手に取った。安全ピンを抜き、続いてレバーを弾き飛ばす――
 それらが地面につくより早く、手中に残った物体を投じた。
 その物体がワン自身の股間を潜り抜け、床を転がって行くのを感じつつ、ワンは微かな異音を耳にした。何か……老人が形容し難い嫌な予感に顔を曇らせた瞬間、それは周辺の窓ガラスが割れるほど爆音と衝撃と、閃光で世界を漂白した――
「ぐあっ!?」
 たまらず苦鳴を漏らし、ワンは耳を押さえてガクリと膝を着いた。
 スタングレネードは膨大な音と光で圧倒し、しばらく見当意識を狂わせる。突入作戦の際には、先にこれを部屋の内に投げ込み、脅威を無力化させるのだ。
 耳を塞ぎ、目を瞑っていたクザンはそれほど被害を受けず、よろよろと立ち上がりかけているワンの姿を認めると、体中に残った力を振り絞って立ち上がった。歯を食いしばって何とか転ばないようにふんばってはいるが、決して長くは持ちそうにない……
 つんのめる様にしてクザンは足を踏み出した。その勢いを利用し、ワンめがけてタックルを仕掛ける。
 無防備な状態を突かれたワンは、他愛もなくマウントポジションをとられてしまった。
「く……おぉぉ……!」
 攻守逆転に持ち込んだは良いが、クザン自身の限界も近い。
 消え入りそうな小さなうめきが、その喉から漏れようとも、それでもクザンは闘うことを止めなかった。まだ動く右腕を持ち上げ、拳を握り締める。瞳はまごう事なき闘志を孕み、ワンを虚ろに睨み据える。
 さらに腕を僅かに引き、今にも拳を振り下ろさんとした瞬間、何かがクザンの後頭部――正確には延髄の辺りを強打した。
 一言も発することなく、クザンの意識は暗渠に飲まれていった……


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