第9話
半年の月日が流れた。
皆、大なり小なり負傷の程度こそあったものの、とっくに完治してそれぞれの生活に戻っている。ただ、全員の治療費を賄うことが出来なかったことと、ちょっとした買い物のために、ママ・ダ・ママのつてを頼りに借金をしてしまった。
この借金を完済すべく半年の間、クザン達は奔走を続けて来たが、その話はまた別の機会に話すとしよう。
未だノルダニア大陸特有の寒さが抜けきらない初春のある日、大陸最南端にあるバーシアの港町にある船着き場に、彼らは居た。
二頭立ての幌馬車の業者席に腰かけ、トーマス・クザンは見送りの連中に声をかけた。
「今まで世話になった。感謝している」
簡潔な言葉だったが、半年の間共に過ごしたアンナ達にはそれが彼なりの、精一杯の感謝を表す言葉であることは、十分に承知している。
「クザンの旦那! 帰る方法も連れも駄目だったら、あっしらの所に戻ってきなよ。あんたの腕にあっしの情報が加われば、天下無敵だぜ!」
気前よく声をかけたガンニックを言い含めるようにして、ジョシュが一言付け加える。
「貧民街の天下をとっても、大した意味は無いでしょうけどね。ともかくクザンさん、ケルトラウデ帝国は最近ノヴァラ氏族達とも対立が進んでいます。中立のはずの神聖アガレス帝国も不穏な空気が漂っていますから、イセリーナに入るまで、決して油断はできません」
これから赴くこととなる、ミディリア大陸の状況を伝えるジョシュに、クザンは頷いた。
「色々ありがとうね、クザンさん。あなたが居なくなると、お店の娘達も寂しがるわ……帰ってきたらこのディアナちゃんも、うんとサービスしちゃうわ」
途中から耳元で囁くアンナの吐息が、首筋にこそばゆい感触を伝えてくる。
衆人環視の中で、微妙な顔付きになりそうなのを必死に堪えたクザンは、最後の一人に顔を向けたが――
「ま、達者で暮らせや」
鼻糞をほじりつつ、なんの感慨も込めずにワン老人は言う。
……このクソ爺め、まぁ期待しちゃいなかったが。苦々しく顔をしかめたクザンだが、出航が間近なことを知らせる、船乗りのがなりを耳朶に捉えた。別れを惜しむのはここまでのようだ。
「では行ってくる」
それだけ言うと、クザンは馬(ファルネースではパカラと呼ばれる、奇妙な人工生命体)に軽く鞭を入れ、甲板へと続くスロープを登らせた。
船乗りが馬車を係留している間も、アンナ達はクザンを見送り続けていた。クザンはどこか照れ臭く思い、極力目を合わせないようにした。そして、出航を知らせる笛の音が、船着き場に鳴り響いた――
もやいを解かれた船は、側舷から櫂を突き出し、ゆっくりと港から海へ出て行く。
次第に遠ざかっていくアンナ達が手を振っている。クザンは、何故かそうしなければならないような気がして、こちらも手を振った。大きく、ここにいる事を示すために――
*
見る間に船は遠ざかり、水平線の向こうに消えていった。
「行っちまったな……」
ガンニックは名残惜し気にポツリと呟いた。
「このまま皆と一緒に、一生どんちゃんして暮らして生きたかったんだがなぁ……」
ガンニックのぼやきに、ジョシュは眼鏡の位置を直しつつ、その可能性を否定した。
「それは無理でしょう。クザンさんは……あの人も人間なんでしょうね。やっぱり、誰だって帰りたくなるものじゃないですか」
地球への帰還――
嘘か誠か、その方法があるらしい。クザンに請われ、ファルネースに広まっている知識を教えている時分に、大学の未整理図書室の片隅で見つけた古文書に記されていた。
――南海に暮らすウチナーの始祖は、かつてファルネースの外からやって来た存在であり、神獣の加護を得て外の世界に回帰した――と。この古文書自体、いつ書かれたものか判別し難いうえ、著者さえ分からない代物と来ては、いささか信憑性に欠けていたのだが……
結局、彼は行ってしまった。
時としてシニカルな考え方がやり切れない時もあったが、やはりクザンもジョシュにとって友人であった。願わくば彼がこの旅路の中で、生きて行く糧を見出さんことを――ジョシュは誰にも聞こえないように、小さく祈りを唱えた。
「あら、ワンさんはどこに行ったのかしら?」
アンナが発したその一言に、ジョシュは物思いから覚め、最前まで居たはずの老人の姿を探し求めたが、どこにも見当たらなかった。
*
船尾から遠ざかって行くノルダニア大陸の影に見飽きると、クザンは係留された馬車に戻るべく甲板を進んだ。
せめてヴァレオンが待つイセリーナに辿り着くまでは、少しでも費用を節約せねばという訳で、客室を取らずに馬車で寝泊まりすることにした。
(とりあえず、どう進もうか……?)
ミディリア上陸後の進路を決めるべく、地図でも読もうと荷台の帆布を捲った瞬間、思わずクザンはすっとんきょうな声で誰何した。
「あんた、なにしてんだ?」
クザンが目にしたのは、装備を詰め込んだ小さなコンテナに足を乗せ、のんびりと瓢箪に入った酒を楽しんでいるワン大老の姿だ。
彼は酔いの回った赤ら顔にニンマリと笑みを浮かべた。
「なに、お前さんのことが心配でのぅ……と言うのは真っ赤な嘘じゃが、酒と女子に囲まれて死ぬる前に、この世界を渡り歩いてみたくなったのよ」
なんと言った物やら……呆れて物も言えないクザンを、まったく気にせずワンは飄々と先を続ける。
「まぁ、なんじゃ。旅は道連れと言うし、お前さんの気の済むまでワシを護衛に使うがええ」
……その通りだが、なにか適当に言いくるめられている気がするのは、決して気のせいでは無いだろう。
溜め息一つ吐き、業者席に身を投げ出したクザンは、ホルスターから45口径を抜き出し、ひんやりとした鋼鉄の遊底を額に押し付けた。
俺は、無事に地球に帰れるのだろうか? 帰還したからと言って、なにか重大な任務も約束も無い。この世界の存在を知らしめようとは思わないので、考えてみると地球に帰る理由は特に無いが――しかし、生きていくにはなにかしらの指針が必要だ。
地球に帰る手段を探す前に、行方が分からなくなってしまった、一緒に来たはずの仲間を探すのも悪くないかもしれない……
額に感じる冷たい鉄の感触を、心地良く思ったクザンは、ゆっくり目を閉じた。
いつ戦わなければならない状況に陥るかも知れない、今は眠っておこう。
次の大陸まで長いのだから……
――『Passage Of Straydog』、第一章『Stray Dog/ジャン・バッハ編』、完。